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「どうして別れる必要がある? 退職することと、俺たちが付き合っていくことは別の話だろう?」
ショートメールの主、大沢律紀は同じ部署のひとつ上の先輩で、付き合い始めて3ヵ月ほど経っていた。
退職願いを提出した日、残りの日を有給消化で済ませるために業務の引き継ぎをし、机のものを片付けた。
彼はそんな杏里のことを、自分の席からチラチラ見ていたけど、二人が付き合っていることはまだ公表していなかったので、個人的に話しかけてくることはなかった。
会社を出て、いつもなら電車通勤だけど、その日はダンボールを持ち帰るためにタクシーに乗り、さっさとマンションに帰ってきた。
家に着くとすぐに、身の回りのものと数日分の着替えだけを持って駅に向かい、席の取れた新幹線に乗った。
終業時間を過ぎた頃から、スマホのアプリに彼からのメッセージが入ってきた。スルーしていると、目的の駅に着いた頃、直接着信が入ってきた。
駅の構内を出てから、何回目かの着信に通話ボタンを押した。
もしかしたら彼も、杏里が何か言ってくるか、と思って待っていたのかもしれない。
退職願いを提出することを、彼には言ってなかったから、きっと驚いただろうな、と思う。
電話に出た彼に、杏里は「別れてほしい」とはっきり言った。
その返事が、さっきの言葉だった。
「でも律紀は、私がどうして退職したいか、きっと理解できないでしょ?
課長と私が揉めた時だって『上が、ああ言うんだから仕方ない』としか言わなかったし」
「どうにもならないことを、蒸し返してもしょうがないだろう?
毎日やるべき仕事が湧いてくるんだから。流れた企画にいつまでもこだわっていられない」
「あんなに手間と時間を掛けて作ってきたものが、課長の一声で潰されたんだよ。それも女性蔑視的な発言までされて。
そういう世の考えを変えようってやってきたのに、私以外、誰も反論しなかったし、誰も味方になってくれなかった。そこに幻滅したの」
彼も味方になってくれなかった内の一人だったから、もう付き合いたくないのだ、という思いを込めてそう言うと、電話の向こうの声は黙ってしまった。
スポーツ用品の企画制作をする会社に務めていた杏里は、衣類のデザインをする部署に所属していた。
その時は体操選手用のユニフォームを、彼とあと二人の同僚男性のチームで制作していた。
ここ数年、女性のレオタードの形が問題になっていた。
上半身は長袖のものも多いのに、下半身は相変わらず足の付け根までしか布地がないことに、女性選手から不満の声が上がっていたのだ。
彼女の部署はこれにいち早く対応しようと、前の年度から選手たちにアンケートを取ったり、スパッツのようなデザイン画を起こしていた。
オリジナルのユニフォームを作ってもらえるような第一線の競技者ではなく、市販のものを利用して練習したり、試合に出ている選手の層がターゲットだった。
それなのに、課長が替わったら、あっという間に廃案になってしまったのだ。
「そんなものは売れない」
理由はそれだけだった。
「ああいう競技は、女性の体の魅力を売ることでもあるだろう? それを隠して試合に出る競技者が何人いる?」
「でも、実際にアンケートでは、新しい形が求められていることは事実なんです。女性の選手は、大会で性に注目されることを嫌がっています。
…大手に勝つには、新しいものに挑戦していく必要もあるんじゃないですか?」
この企画を最初に持ち出したのが自分だったこともあって、彼女は異動してきたばかりの課長に食い下がった。
実際に、前の課長の頃はそれで進めていくはずだったのだ。
選手に本当に求められているものを作ろう、肌の露出や一般的に言われる女性らしさではなく、一人ひとりが演技力で評価される場を増やしていこう、と。
「うちにそんな余裕はない。王道を作ってたくさん売ることが大事なんだ」
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