潜入

1/1
前へ
/19ページ
次へ

潜入

 どれぐらい輿に揺られていたのか、見当が付かぬまま時が過ぎる。  外の足音が止み、一、二、三の掛け声で輿が下ろされる。どうやら、目的地に到着したらしい。  輿の小窓が空き、護衛の為に付いていた衛尉の官吏が顔を出す。 「着きましたよ」官吏の声が合図だったかのように、輿の出入り口が開けられ朱羅は身を低くし外に出る。  雨は既に止んでいるが、石畳は濡れ曇天が広がっており、雨の匂いがする。  朱羅の目の前には、身の丈よりも高い城壁が聳え立っている。  城壁は一面、禁色である金青(こんじょう)色に染められ、唯一漆黒の城門が目を引く。城門は固く閉じられその前では、警備の為に屈強な武官が二人、槍を手に仁王立ちし周囲に眼を光らせている。  朱羅は高い城壁を見上げ、感嘆の息を吐く。 「朱羅様」呆然と城壁を見上げていた朱羅に、輿の中で通訳として解説していた官吏が声を掛ける。 「参りましょうか」官吏に促され、朱羅は一歩足を踏み出す。  歩き始めて直ぐに、周囲からの視線に気づく。 「なにあの服装……」  偶然すれ違った、女性が朱羅の服装を見、怪訝そうにつぶやく。すれ違いざま、女性が身に着けていたのか、甘い香の香りが掠める。  朱羅が身に纏っているのは、聴色の薄い衣を幾重にも重ねた火紗国を象徴する服装。月暈国の襦裙とは似ても似つかない。  女性の視線と口振りに、先ほど輿の中で官吏が忠告したことは、正しかったと思い知る。  そもそも、火紗国は普段から積極的に外交を行う国ではない。隣国の二国とは、慶事などがあれば、華炎が文を出す必要最低限の外交を行っている。  月暈国の民は疎か、国の重鎮でさえ火紗国に足を踏み入れたことはない。砂漠に囲まれた、女帝が国政の実権を握る小国。  民や国王、国の重鎮が持つ火紗国に対する知識はこれぐらいだろう。  そのような国に、異国の服装を身に纏った女人が居れば、好奇の目に晒されることは当然である。  朱羅は己に向けられる好奇の視線を避けるように、視線を下に向け足を踏み出す。  城門の前まで来ると、警備を行っている武官が、宮廷の参内に必要な手形を見せるようにと諭す。  朱羅は衣の懐から、皓月から送られた木製の手形を取り出す。  手形の表には、月暈国の国璽と皓月の名、更には玉璽が捺印されている。裏には、朱羅の名と火紗国から来た巫女であることが記されている。  朱羅は屈強な武官に、手形を面を上にし手渡す。武官は受け取ると、表と裏を確認し、朱羅に返すと微かに頷く。  武官が頷いたことが合図だったのか、城門が開かれ宮廷内が明らかになる。  高い城壁に沿うように、政の中心となる正殿や月暈国を象徴する周易局、更には三省六部、九寺、五監、一台が聳え立ち、中央のみ空間が開いている。  地面には一面石畳が引かれ、多くの官吏が往来している。往来している官吏の数は多いが、誰も他人のことを気に掛ける暇はないのか、朱羅がいることに気に留めもしない。    規模と造りに圧倒されている朱羅に、官吏が歩み寄り案内しつつ各機関の説明をしていく。  三省六部は馴染みがあるが、九寺・五監となると話は別だ。どちらも、火紗国には存在しない。  存在せずとも、国を経世することが出来る。  火紗国とは造りも規模も違う異国の宮廷。宮廷の規模や造りは、その国の国力を表しているかのようである。  小国の火紗国とは違い、月暈国では政の表舞台となる外廷と、国王をはじめ王族らが住まう内廷に分かれ、宮廷の広さは火紗国の倍ほどにもなる。  恐らく、倍ほどの規模がなければ、この国を経世していくのは困難なのだろう。  国が変われば当然、宮廷の造りや政治体制も変わる。今まで漠然と理解していたことを、改めてまざまざと見せつけられたかのようである。  これから正殿で、国王をはじめ国の重鎮らに拝謁する予定になっている。  華炎から、国王が身体が弱い為に、太后らが政権を握っている、とは聞いているが具体的な人となりは不透明なままである。  お互いの国や君主の人となりを把握していないのはお互い様なのだ。  華炎の王命は、“巫女として潜入し、ある人物に取り入ること”―。 国王の人となりが不透明なままで、王命を遂行できるのか―。  一抹の不安が宿る。  朱羅の胸中などどこ吹く風で、官吏は正殿に向かい足を進めている。朱羅は浅く息を吐き、官吏の背を追った。  内廷で朱羅が官吏から、各機関の説明を受けていた同時刻。  正殿では、皓月と秀鈴、そして珀惺をはじめとした臣下らが朱羅の参内を首を長くし待っていた。  正殿の奥、階の上にある王座には皓月が腰を下ろし、隣りには秀鈴が腰を下ろしている。  階の下には、臣下らが左右に分かれ列を成し、珀惺を先頭に右に列を成すものは濃色の深衣を身に纏い、初虧を先頭に左に列を成すものは鉄紺色の深衣を身に纏っている。  外は数日前から、黴雨末期特有の土砂降りの雨が続き、今朝になりようやく小雨になり、現在は雨は止んだが相変わらず曇天が続いている。  このような天候の時、皓月の体調は優れないのが常であるが、異国からの来訪に寝込んでいるでは他国から示しが付かず、この日は雲霓から処方された煎じ薬を飲み、半ば無理やりこの場に居る。  秀鈴は皓月の様子をちらりと窺う。  いくら煎じ薬を飲んだとはいえ、やはり体調が万全ではないのだろう。顔色が優れず、元々色白だが今日はいつにも増して、青白い気がする。 「皓月。大丈夫ですか」顔色を見て秀鈴が小声で問う。 「ご心配なく。母上」ぎごちない笑みと、上ずった声音にやはり無理をしてこの場にいるのだと思案する。  息子のそのような姿を見聴きし、秀鈴の胸は痛む。と同時に、やはり初虧が提案した退位の件を、本格的に進めるべきだと思案する。  打診があったのは新緑の季節であった。黴雨末期の今日になっても、皓月の口からそのことについて進言はない。  いや。恐らくしないだろう、と秀鈴は思う。    皓月は退位など望んでいない。皓月が望んでいるのは、周易局ありきの国政の在り方を改変すること。  皓月は昔から、丞相である珀惺や右丞である彗明と志を同じくしている節がある。  それを、摂政である自分やまして、周易局の長官である初虧には口が裂けても言わないだろうが―。  今まで、退位の件は王妃・彗天と共に夫婦で話し合えば良いと、本人の意向に任せてきた。しかし、皓月の様子を見るに悠長なことは言っていられない。  先王の崩去後己が摂政を務める、と半ば強制的に即位させた。母親として、子を手助けするのは当然だと自負していたからだ。それが、身体の弱い皓月の為ならば尚のこと。  だが、今になってその判断が正しかったか、と問われると然りと即答できる自信はない。  兎に角、一度退位の件を親子で話した方が良いと秀鈴は気を引き締める。  秀鈴の胸中などどこ吹く風で、正殿の外に人の気配が生じる。 待ち人来るだろうか―。  皓月をはじめ、この場にいる者誰もが気を引き締める。場の空気が、一本の糸を張ったような緊張感に包まれる。  外で警備に当たっていた、衛尉の官吏が待ち人のおとないを告げる。声を合図に、ゆっくりと正殿の扉が左右に開かれる。逆光で顔や服装の詳細が分からず、影のみが見える。  服装と髪型で女人だろうと推測できる。  女人はゆっくり歩みを進める。正殿の中央を歩く女人に、臣下らの視線が集中する。女人の背後には、通訳の為に官吏が一人付いている。  薄い衣を幾重にも重ねた聴色の衣装は、皓月はおろか臣下らも馴染みのないものである。  女人は階の前で再拝稽首を捧げ口を開く。 「お初にお目にかかります。  わたくし巫女・朱羅と申します。火紗国から参りました。  どうぞお見知りおきを」  若干たどたどしいが、それでも発音に相違はない。恐らく、通訳なしでも巫女の職務を遂行できるように、こちらの言語を修練してきたのだろう。 これだけ話せるのなら、通訳は不要やもしれぬ―。  皓月はそう思案し口を開く。 「面を上げよ」皓月の声に、朱羅は面を上げ立ち上がり皓月を見上げる。  書簡に“巫女”と認められていたからか、妖艶な得体の知れない女人かと思い込んでいたが、目の前で朱羅と名乗った女人は少女のようなあどけない風貌である。 まるで、巫女として見えるように振る舞っているかのような―。  皓月の胸中に若干の違和感が掠める。  だが、身分を偽って参内する利点は不透明である。 証拠がない以上、様子を見るしかない―。  己にそう言い聞かせる。 「長旅ご苦労であった。  異国で不自由なこともあるであろうが、そなたには“巫女”として、両国が弥栄になる為に尽力してほしい」  皓月は笑みを浮かべ、朱羅に激励を贈る。  自分でも、社交辞令以外なにものでもないような文言だと思う。だが先程、胸中を掠めた違和感がどうにも引っかかるのは確かである。
/19ページ

最初のコメントを投稿しよう!

38人が本棚に入れています
本棚に追加