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討議
皓月に拝謁を終えた朱羅は、官吏らに内廷へ案内された。
内廷は回廊に囲まれ、回廊へと繋がる階の下に君主や妃の生活を支える六つの機関が建つ。
その中の衣服を所管する尚服の建物内で、数人の女官らが朱羅の到着を待ち構えていた。何事かと慄き、後ずさりしようとする朱羅を尻目に女官らは皆、満面の笑みを浮かべている。
その異様な雰囲気に、朱羅は畏怖から一歩身を引いた。
「さぁこちらへ」
「怪しい者ではございません。
王様と王妃様から、貴女様のお召し変えをするようにと命を受けております」
「勿論今、お召しになっている衣も良くお似合いです。ですが、それでは動きにくくこの宮廷では目立ってしまいます」
「衣はわたくしどもが、責任を持ってお預かりいたしますのでご心配なく」
朱羅が一歩身を引いたからか、女官らは逃がすまいと畳み掛けるように要件を伝え、反論の暇も与えない。
要するに、今の服装では悪目立ちするので、月暈国の衣に着替えるように、ということらしい。
女官らの意思を理解すると、朱羅に部屋の内部を見回す余裕が出てきた。
部屋の隅には行灯が置かれ明るさを保っている。更に、それまで気づかなかったが、女官らの背後には衣が掛けられた衣桁が用意されていた。
朱羅が建物内に足を踏み入れると、外にいた官吏が扉を閉める。それを合図に、女官らが朱羅の衣を引き、奥へと誘う。
女官らの手によって、襦裙に着かえさせられた朱羅は深く息を吐く。
火紗国の衣装とは似ても似つかない服装。何より、胸の辺りを帯で締めているからか、締め付けられるようで息苦しい。女官らはいづれ慣れる、と言ったが気休めかまたは誠かはっきりしない。
兎に角、この宮廷で過ごしていくには、この国の習慣に慣れるしか術はない。
郷に入れば郷に従えだ。
朱羅との対面が終わり、臣下らが去ると正殿には皓月と秀鈴のみが残された。
皓月が階を降り、出入り口に足を向けた刹那。
「王様。少しよろしいですか」秀鈴が声を掛ける。
皓月が足を止め、青白い顔で頭を揺らさぬように、ゆっくり振り返る。
「手短にお願いいたします。
それが出来ぬのなら後日に」
本音を言えば、今すぐにでも横になりたいのだが、呼び止められた手前無下に断ることは難しい。
秀鈴は皓月の様子から、胸中を察したのだろう。暫し思案し、口を開いた。
「少々、込み入った話ですので、“手短に”というのは難しいかと存じます。
それ故、王様さえ良ければ、近いうちに一度腰を据えて話したいと思うております」
「では後日。お待ちしております」
努めて平然と言い身を翻す。
正殿を出た皓月は息を吐く。今まで張り詰めていたものが解けたからか、悪心や頭重感がどっと増したようで思わず、片手で顔を覆いきつく瞳を閉じる。
「王様」正殿の外で控えていた彩雲が、眼を瞠り駆け寄り顔を覗き込む。
「大丈夫だ。大丈夫」
皓月は己に言い聞かせるように言う。
主から幾ら“大丈夫だ”と言われても、青白い顔と苦悶の表情に彩雲は険しい顔をする。
皓月は目を開け顔を覆っていた手を下ろす。再度、深く息を吐くと口を開く。
「内廷に戻る」皓月の一言に、彩雲は「御意」と答える。
皓月を先頭に、彩雲をはじめとした内官と女官らが列を成し、正殿を後にする。
内廷に戻り、宮に入ると着替えることもせず、褻衣のまま寝台に横になる。一度雨は止んだようだが、再び雨音が耳に届く。
「雲霓様をお呼びしましょうか」
彩雲が傍により身を屈め囁くように言う。皓月は「いや」と頭を振った。
「どうせ、煎じ薬を処方されるだけだろう。いつものことだ、寝れば治る」
普段ならば、彩雲相手でももう少し慇懃な物言いをするが、今日はそのようなことに気を回す余裕すらないのだろう。
「ですが……」彩雲が珍しく、縋るような声音と眼をする。
皓月はそう言うが、煎じ薬を飲めば多少苦痛が和らぐのだ。それ故、彩雲としては多少でも苦痛を取る術があるのならば、使わない手はないと思っている。
国王という立場や環境、更には病弱であるという己の境遇から難しいことだと承知しているが、皓月にはなるべく平穏な日々を過ごして欲しいと彩雲は常に思っている。
立場上、口にしたことは一度もないが。
彩雲の胸中などなにも知らぬ皓月は、眼を閉じ寝がえりを打ち彩雲に背を向ける。彩雲はそんな皓月の様子を見、なにも言わずその場を離れた。
朱羅と対面してから数日後。長らく降り続いていた雨もようやく上がり、久しぶりに青空を仰ぎ見ることが出来る。と同時に、容赦なく日差しが降り注ぎ身を焼かれるような日差しが降り注ぐ。まさしく、酷暑と呼ぶに相応しい気候である。
「王様。太后様がお越しになりました」
朝議が済んだ明け四ツ(午前十時頃)。彩雲が声を掛ける。
宮に少しでも風を取りこもうと、窓という窓すべてを開け放しているが、入ってくるのは熱風のみであり、じっとしていても汗が噴き出すことに変わりはない。
彩雲に声を掛けられ、皓月は「中に通せ」と命じる。
皓月の命を受け、彩雲は「御意」と答え身を翻す。
彩雲に伴われて来た秀鈴は、酷暑だというのに顔は涼しいままである。
文机を挟んで、皓月と向かい合わせに腰を下ろした秀鈴を認め、彩雲は何も言わずその場から離れ出入口へと向かった。
扉が閉まる音が消えると、秀鈴が口を開いた。
「体調は如何ですか。王様」
無駄な問いだと皓月は思う。
寝込んでいないのだから、今日は調子が良いと分かるだろうに―。
「先日はご心配をお掛けいたしました。母上」
皓月は努めて平然と振る舞う。
再び扉が開き、ふたり分の湯飲みと銀の器が乗った盆を手に、彩雲が戻って来た。
彩雲はふたりの前に湯飲みを、文机の中央に器を置いた。湯飲みには茶が、銀の器には暑気払いにと瓜が入っている。
恐らく、尚食に頼み用意してもらったのだろう。
彩雲は物言わず、揖礼を捧げその場を離れる。
「左様ですか」秀鈴が湯飲みに口を付け言う。
沈黙が満ちる。聞こえて来るのは、蝉の鳴き声と内廷の微かな喧騒のみである。
そのままお互い無言で見つめ合う。
要件とは何か。秀鈴は先日、“込み入った話になる”と言っていた。
これではただの時間稼ぎだ―。
皓月の胸中に焦燥が生まれる。
「して、お話とは?」沈黙を破ったのは皓月である。静かに水を向けた。
「はじめに今日、わたくしは太后ではなく母親として、宮に来ています。
努々お忘れなきよう」
太后ではなく母親として―。
皓月は秀鈴の言葉の意味を咀嚼する。
つまり、話は政ではなく己についての話ということか―。
「他でもない、貴方の静養の件です」
秀鈴は単刀直入に言う。
その話題が昇ったのは、まだ黴雨前の新緑の時期であった。一度打診されたのみで、音沙汰がないことから皓月の中では、既にその話は有耶無耶になったと思っていた。が、秀鈴の中ではそうではないらしい。いや。恐らく初虧の中でも。
初虧は特に強く、皓月が静養という名の退位を選ぶことを渇望している。
皓月は嫌悪感を露わにせず、秀鈴を見つめ続けている。
「これまで、静養については貴方や王妃様の意向に任せてきました。
ですが、先日の様子を鑑みるに、なるべく早く静養をするべきだと思案しております。
一度、宮廷や政といった身分や柵から解放された方がよろしいかと。
勿論、貴方一人でとは言いません。衣食住を世話をする者が要りましょう。彩雲や他の女官らと共に。慣れない土地で、見知った者が傍にいると心強いでしょう」
皓月が賛同していないにも関わらず、まるで静養をすると決まっているかのような口振りである。
「それは、退位せよと同意では?」
皓月の視線が鋭くなる。大きく息を吐き、湯飲みに口を付ける。
「確かに、“名ばかりの王”、“太后の傀儡”と民に膾炙されていることは存じております。思うように政に関われないだけでなく、世継ぎに恵まれることもない。民の言い分は至当でございましょう」
皓月は言葉を切ると、大きく頭を振った。
「ですが、とは言え静養に出るつもりはございません。わたくしにはまだ、君主としてやらねばならないことがございます」
皓月はきっぱりと言い切る。
「やらねばならないこと……」
秀鈴が皓月の言葉を繰り返す。皓月が「左様です」と頷く。
「必ずこの国の行く末の為に、必要となりましょう」
瞳に強い意志を湛え、秀鈴を真っ直ぐ見据える。
秀鈴はその姿を見、思わず視線を逸らす。
息子の意思とは裏腹に、静養を勧める己を責めるような皓月の強い意思を湛えた瞳と真っ直ぐ見据える視線。
罪悪感で目を合わせることが出来なかった。
と同時に、恐らく病弱でなければ、皓月は国の行く末をより良きものにしようと最善を尽くす、名君になっていたのではないか、と思案する。
最も今更、そのようなことを思案してもどうにもならないのは、他でもない秀鈴が一番承知している。だが、皓月の様子を見るとそう思わずにいられない。
秀鈴の胸中など知らぬまま、皓月が再度口を開いた。
「わたくしは、周易局と王位継承の掟に手を加えようと思案しております」
再び沈黙が満ちる。
やはりそうか―。
皓月の言葉を聞いても、秀鈴はさして驚かない。恐らく、そのようなことだろうと思っていた。
以前から、周易局の有り様や王位継承に関する掟について、思うところがあるような節を見せていた。だが、思うところがあるとは言え、それを秀鈴に言うことはないだろうと思い込んでいた。
秀鈴としては、それこそが驚くべきことである。
王位継承の掟はまだしも、周易局は国を象徴し必要な機関だ。周易局が機能し、初虧がいるからこそ国政は安定する。
それに、手を加えるとはなにをする気だろうか。
息子が思案していることが、いまいち釈然とせず様子を窺う。
「なにをするつもりですか」静かに問う。
「まだ、策を練っている最中でございます故、詳細は差し控えさせていただきます」
まるで、黙って見ていろとでも言うような口振りである。
ふたりの視線が絡み合う。
「それ故、静養には出ぬと?」秀鈴の問いに「左様にございます」と答える。
秀鈴は身を乗り出す。
「皓月、わたくしはやはり静養に出るべきだと思うております。今の環境は、貴方にとってあまりにも負担が多すぎる。負担が減れば、貴方の体調も安定するでしょうに」
憂いた声音。皓月の言い分に耳を傾けようともしない、秀鈴の物言いに皓月は眉を顰める。
「母上もしや、初虧からそのようにわたくしを、説得せよと命を受けたのですか?」
皓月がそう口にした途端、秀鈴の目つきが鋭くなる。
「なにを仰せに。そのようなことはありません」
秀鈴が大きく頭を振る。髪に挿した歩揺が、しゃらしゃらと音を立てる。
「わたくしは貴方の体調を案じているのです。勿論、わたくしだけではなく初虧様や珀惺様、更には彩雲も皆」
縋るような声音である。だが嘘偽りではないのだろう。初虧を除いては。
そうだとしても、静養に出る訳にはいかない。一度、宮廷を離れたら最後。恐らく、己の居場所は初虧や弟である偃月に受け渡すことになるだろう。
そうなれば、ふたりは嬉々として国政を牛耳るのではないだろうか。
運よく宮廷に戻れたとしても、己の居場所はない。
更に、王位継承の掟も周易局の改革の件も、道半ばとなる。全ては、初虧の思い通りにことが進む。
そのようなこと誰がさせるか―。
皓月は奥歯を噛み締める。
「母上」皓月は秀鈴を真っ直ぐ見つめ口を開いた。
「再度申し上げます。わたくしは、静養に出るつもりは毛頭ございません。
母上や他の者が、わたくしの体調を案じ、此度の静養を提案してくださるのことは感謝しております。ですがそれでは、わたくしが算段を付けているものは、全て道半ばとなりましょう。それは、国の為にもなりません。
今まで通り、この宮で“太后の傀儡”として生きて参ります」
静かだが自虐的な物言い。
宮を出た秀鈴は、大きく息を吐く。思えば、皓月は一見穏やかな人柄に見えるが、一度言い出したら聞かないところが昔からあった。
故に此度も“太后の傀儡として生きていく”と、言っていたがそのつもりはないだろうと思案する。
恐らく、近いうちに周易局と王位継承の掟の改定に着手するはずだ。皓月がどのような改革を行うかは不透明である。だが、天雲に影響を及ばすことは確かだろう。
秀鈴は振り返り、宮を見つめる。再度、大きな息を吐いた。
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