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予兆
宮を去った秀鈴と入れ替わるように、彩雲が姿を現した。
「太后様のご用向きは?」彩雲が秀鈴の前に置いた湯飲みを、片付けつつ言う。
話の内容を聞いていただろうに―。
そう思うが、あえて口にしない。聞くだけ野暮というものだ。
「退位の件だ」皓月は短く答える。
「太后様は退位せよと?」彩雲の問いに「あぁ」と頷く。
「表向きは静養だが。
静養先にはお前を連れて行っても良いと」
皓月は彩雲の顔をじっと見つめる。
「わたくしもですか……」彩雲が呟く。
「まぁ、静養に出る気はさらさらないがな」
そう言って、皓月は笑った。
その言葉を聞いて、彩雲が表情を緩める。
「皓月様」彩雲が表情を引き締め徐に声を掛ける。
「このようなことを、申し上げるのは立場上お門違いとは存じております。です
が、ひとつだけよろしいでしょうか」
ここで一度、言葉を切り一拍置くと、こう続ける。
「わたくしは、退位をなさることもご静養に向かうことも、賛成いたしません。
ですが、皓月様がどこかへ行かれるのならば、どこであろうとわたくしは喜んでお供します。
わたくしは、親から口減らしとして、宮廷に売りに出された身でございます。親や兄弟ましてや親戚も今どこでどうしているのか、第一生きているのかどうかさえ存じません。身内など居ないも同然でございます。
それ故、わたくしには宮廷を追い出されされたら、行くところも帰る場所もございません。もしそのような場があるのならば、それは皓月様のお傍でございましょう」
思いも寄らない発言。彩雲がこれほどまで、己の境遇を話すのをはじめて聞いた。
と同時に、やはり彩雲も他の宦官と同じように、口減らしとして宮廷に売られた身なのだと知り、皓月は己に責があるようで胸に靄が掛かる。
だが、宮廷に売られてもこうして、国王の側仕えの内官として、宮仕えできるだけで幸運なのだ。
宦官の中には、虐げされ家畜よりも杜撰な扱いを受ける者もいる。宮廷内でも、幼い内官を指導する師父に、酷い扱いを受ける者がいることも事実。
だからこそ、彩雲は主である皓月に恩を感じ、恐らくあのようなことを口にしたのだ。
「そうだな。私もまだまだ、お前にいて貰わなければ困る」
皓月は彩雲に視線を合わせ、ふっと笑う。彩雲もその笑みに釣られたかのように、微笑を浮かべる。
こうやって、笑えばいいのに―。
いつかも思ったことを、皓月は再び思案する。
彩雲が皓月の身を案じているのと同じく、皓月もまた彼の身を案じているのだ。更に言えば、この世に生を受けたのなら、日々が充足したものであるように案じている。
立場上、口にしてはいけないとは肝に銘じているが。
黴雨が明け、厳しい日差しが降り居注ぐ時期になっても、天雲は未だ佩玉の件を白陽に切り出せずにいた。
思い悩むより、さっさと話した方が良いと囁く己と、今はまだ話すべきではないと囁く己。胸中では、正反対の己が囁き合う。
だが、いつまでも胸中に留まらせておく訳にはいかないことも事実。いつかは、白陽に真相を尋ねなければならない。
白陽は己が官吏を辞めたら淡月へ向かえ、と言われているが天雲の中では、未だどうするか決めかねている。
なんの根拠もないが、天雲からの問いに関する答えは、淡月へ向かうかどうかも含めて、己がこれから生きていく為の指標になるような気がしている。
その日はどういう訳か、今日こそは…と真相を尋ねる決心を固めていた。白陽の職務が休みで、一日中邸にいるという状況もあったかも知れない。
「父さん。少し聞きたいことがある」
夕餉の最中に天雲が切り出す。この時を選んだのは、絶対に言い逃れが出来ない時だからだ。その時を見計らって切り出した。
「聞きたいこと?」息子の決心など微塵も予想せず、白陽は至って朗らかに問う。
天雲は「あぁ」と頷くと、懐から件の佩玉を取り出す。
「これのことだ」白陽に体玉を見せつけるかの如く、目の前に掲げる。
佩玉を目にした瞬間、白陽は眼を瞠る。恐らく、佩玉のことだとは予想もしていなかったのだろう。
「ずっと気になってた。この佩玉のこと。
亡くなった母さんは、俺が知る限り佩玉を身に着ける人じゃなかった。どうして、佩玉があるのか、どうして俺が肌身離さず持っているのか」
天雲としては、声を大にして糾弾したいのだが、それでは逆効果になってしまう。故に努めて淡々と話す。
白陽は口を一文字に結んで、むっつり黙り込んだままである。
話せないのはなにか理由があるのか―?
胸中に疑念が生まれる。
埒が空かない、そう思案し天雲は壁に彫られている宝相華の花を見せる。
「この宝相華の花は、王妃様しか使用してはいけない柄。ということは、この佩玉の持ち主は今の太后様か王妃様のもの。そうだろう?」
白陽の反応を窺う。だが、彼が口を開くことはない。
「父さん。俺はこの佩玉に、宮廷に近づいてはいけない理由や、父さんが淡月に向かわせることに拘る、理由へ繋がる手がかりがあると思っている」
天雲は白陽をじっと見つめる。
暫しの間、沈黙が続き重苦しい空気が流れる。天雲は佩玉を懐に仕舞込む。
それまで、沈黙を貫いていた玉惺が居心地悪そうに、天雲と白陽の顔を交互に見比べる。
重々しい空気の中、白陽がようやく口を開いた。
「誰から聞いた」低く腹に響く声で言う。
「何が」天雲の物言いは素っ気ない。
「佩玉の宝相華の件だ。誰から聞いた。答えろ」
声が怒気を含む。天雲はちらりと玉惺に視線を向ける。
「玉惺、お前なのか。佩玉の件を話したのは」
玉惺をぎろりと睨みつける。鋭い視線に、玉惺は視線を下に向ける。
「何故話した」物言わぬ玉惺に白陽は低い声で問う。
あの晩、佩玉を玉惺に見せたのは天雲だ。だが、それだけで玉惺を責める道理はない。
「父さんそれは……」玉惺を庇うかのように天雲が声を上げる。
だが、玉惺が顔を上げ白陽を鋭い視線で見、言葉を遮る。
「話したら拙かった?
だって、この国の民は皆知っていることでしょう。宝相華の花は王妃様しか使えない柄。それを、どうして天雲には隠していたの?」
淡々と白陽を糾弾していく。
「玉惺。私は別に隠していた訳ではない。だが、話せば天雲を危険に晒すことになる。それだけではない、佩玉の件を話せば天雲だけではない、私や玉惺…更に言えば親戚も不都合が生じる。
何度も言うが、私がお前を淡月に向かわせることに拘るのも、佩玉の件を話さないのも、全ては皆を護る為だ。決して、蔑ろにする為ではない。寧ろ、大切だからだ。天雲も玉惺も」
誰がそんな子供だましな弁解で納得するというのか―。
天雲は奥歯を噛み締める。
「その説明で、俺が納得するとでも?」
天雲の声が尖り怒気を含む。
「お前の気持ちも分かる。だが今、私が言えるのはここまでだ。
すまない」
白陽はいつかと同じように、旋毛が見えるほど深く頭を下げた。
なんだよそれ―。
結局父さんは、俺を子ども扱いしているだけじゃないか―。
天雲の胸中には、白陽に対する反抗心と不信感が募る。
天雲から佩玉の件を聞いた数日後。白陽の姿は内廷にあった。
朝は快晴だった空が、西から昏い雲が迫る。夕立があるかもしれない。
隠し通すのは限界かもしれない―。
佩玉の壁に彫られている、宝相華の花に気づかれてしまった以上、天雲が己の出生の秘密に気付くのは、時間の問題だと白陽は危惧している。
真実を知ったら、天雲は宮廷に戻るのだろうか―。
頭では王位継承の掟を理解していても、最悪な状況を想像してしまう。
万が一、宮廷に戻った場合、天雲はどのような扱いを受けるのだろう―。
今まで、民として生活してきた天雲にとって、宮廷は鳥籠のように窮屈な場ではないか。第一、秀鈴や初虧は宮廷に戻ることを許さないだろう。
宮廷に天雲の居場所などないのだ。
兎に角、今後の身の振り方を秀鈴と話し合うべきだと思案した白陽は、職務終わりに内廷へと足を向けた。
秀鈴が住まう金烏宮にて、白陽は秀鈴と対峙していた。
「して、ご用向きは?」冷たい茶を啜り、淡々と問う。
白陽は気持ちを落ち着かせる為に、深く息を吐き一拍置き口を開く。
「天雲が太后様の佩玉に彫られた、宝相華の花に気づいたようで……。宝相華の花が王妃しか使えないものだとも」
秀鈴の反応を窺う。
秀鈴は佩玉と宝相華の花の話題に、微かに眼を瞠る。
「今でも佩玉を……」耳を澄まさなければ聞こえない程、小さく掠れた声で呟く。
その反応に、白陽は強張っていた頬を微かに緩める。少しでも、秀鈴に生母としての愛情があったことに安堵する。
「えぇ。今でも、懐に入れ大切にしております」
白陽の言葉に秀鈴は「そうですか」と、朗らかな声音で同じく頬を微かに緩める。
冷ややかな態度を取っていたが、もしかしたらわざとそのような態度を取っていたのかも知れない。
真相は秀鈴にしか分からない。だが、白陽にはそう思えてならないのだ。
秀鈴は表情を引き締める。
「わたくしになにをせよと?」訝しげに問う。
白陽は視線を下に落し、言葉を探す。暫くして、白陽は顔を上げ秀鈴を見つめる。静かに語り始める。
「わたくしは今まで、天雲に出生の秘密を伝るべきではない、と自負してまいりました。ですが、佩玉が王妃の持ち物だと知られた以上、隠し通すことは困難かと存じます。
先代の王様や太后様が、天雲の為を思って出生の秘密に緘口令を引かれたことは、わたくしも承知しております。今の宮廷の状況を鑑みても、そのご判断が正しいものだとも。
ですが天雲は己が何故、都や宮廷に近づいてはいけないのか、何故官吏の登用試験を受けてはいけないのか、何故わたくしが淡月に向かわせることに拘るのか。己に関わる全てのことに、猜疑心を持っております」
気持ちを落ち着かせる為に、深衣の袖で口元を隠し湯飲みに口を付ける。
「太后様。そろそろ、隠し通すことに限界が来たように、わたくしには思えてならないのです。
以前も申し上げた通り、天雲は憂き世を知らぬ子どもではございません。数え二十の青年にございます。いつまでも、誤魔化しが効く訳ではないでしょう。
どうかわたくしが彼に、時が来たら出生の秘密を話すことをお許しください。いえ、可能ならば貴女様からお話ください」
国の太后に己で出生の秘密を話せ、などと頼むことがどれ程無礼か白陽は良く承知している。
だが猜疑心を持った状態で、天雲が白陽の話を大人しく聞くとは到底思えない。売り言葉に買い言葉となり、最悪二度と口を利いてくれなくなるかも知れない。
小心者だと自分でも思う。父親として振る舞うのならば、正々堂々と天雲に向き合うべきだとも。だが最悪の状態になれば、仮初の親子の関係が決裂してしまう可能性もある。
結局私は、誠の父親にはなれぬのだな―。
今まで、白陽も亡き妻も天雲を実の息子と同じように育ててきた。皇子だからといって、甘やかすことはせず民として生きていく為に、必要なことを教え込んできたつもりだ。
だが幾らそう育てても、所詮血のつながりのない仮初の親子に過ぎない。
白陽の胸中などどこ吹く風で、秀鈴が静かに話始める。
「王様が周易局と王位継承の掟に、手を加える算段を練っております。それ故、話すか話さないかは、このことを踏まえて慎重にご検討ください」
否とも然りとも取れる物言い。
全ては、白陽次第…ということだろう。
秀鈴の言う、“手を加える”とはなにを指すのか、皓月がなにを企てているのか。白陽には全容が掴めない。
第一、皓月は今後も政に関わらないと白陽は思案していた。政は摂政である秀鈴や、周易局・長官の初虧に任せ、自身は体調の安定に努めるのだろうと。
それ故、周易局や王位継承に手を加えることは、意外だなと白陽は思う。
もしかすると、皓月は白陽が思うより、国の行く末を案じ国政に関わることを望んでいるのではないか。一国の君主ならば、そのような感情を抱いて当然なのは確かなのだが。
王位継承の掟が変われば、影響が天雲にまで及ぶことは必然である。秀鈴は、それを見越して、慎重に…と言及したのだろう。
話すべきか否か……。天雲の行く末は白陽が握っている、といっても過言でない。その事実が、更に白陽の振り子の揺れを大きくする。
その話題が宮廷を駆け抜けたのは、酷暑の盛りであった。
六華妃懐妊の兆しである。
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