対立

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対立

 昼間はまだ酷暑が続くが、朝夕に涼しい風が吹き時折、鈴虫の鳴き声も耳にするようになった。  日が沈み、周易局の官吏らが職務に入る頃、六華の姿は王宮の回廊にあった。  懐妊の診察から約ひと月。  未だに悪心をはじめとした、悪阻の症状は続いており、とても本調子とは言い難い。症状は日によって違い、日によっては、一日寝台に横になっていることも少なくない。  宮廷医の雲霓からは、体調の良い日に外の空気を吸うことも、気分転換になると助言されている。が、日中の酷暑にとてもではないが、外に出る気にもなれず、こうして日が沈んだのちに、内廷を散策している。  回廊を慎重に進む六華の足元を、側仕えの女官が行灯で照らしてくれている。昼間は蝉の鳴き声が容赦なく降り注ぐが、今は蝉の代わりに鈴虫の鳴き声が耳に届く。  この夜更けに、回廊を歩いているのは自分だけだ、と六華は自負していたのだがそうでもないらしい。前方から、行灯の火が揺れ徐々に近づいてくる。 誰だろう―。  六華は訝しげな顔をし足を止める。 「六華様。どうなさいました?  宮に戻られますか」  主が立ち止まったことに、背後から側仕えの女官が静かに問う。  女官としては、主の体調が一番の気がかりなのだ。  六華は頭を振り、前方を凝視する。行灯の火は、確実にこちらに近づいてくる。それと同時に、しゃらしゃらと涼やかな音が耳に届く。  この宮廷で、歩揺を挿し着飾っているのは太后か王妃のどちらかである。  懐妊の件は既に、太后と王妃に伝わっている。太后は世継ぎができ、国が安泰になることに安堵していたが、王妃の方は反応は表立って返って来ていない。  それもそうだろうと六華は思う。王妃ではなく、皇子の妃が懐妊をしたのだから穏やかではないはずだ。  そもそも、六華としてはあの王妃はどうにもいけ好かない。恐らく、王妃も己のことをそう思っているだろう。  如何にも世間知らずだと言わんばかりの声音と物言いだが、時に臆することなく毒を吐く発言。控えめで大人しく、常に国王の隣で微笑んでいる。  世継ぎが望めず、その件について、どれだけ宮廷内で悪口を叩かれようとも、煙たがれようともどこ吹く風で気にする素振りさえ見せない。  その姿を見る度、発言を耳する度、彼女は己にないものを手にしており、彼女がこの国の王妃なのだと、見せつけれらるようで苛立ちがつのる。  六華が足を止め、思案している間にも行灯の火は近づいて来る。行灯の火が近づいて来るのと同時に、朧げだった人物の姿が明らかになる。  襦裙に刺繍された宝相華の柄。月暈国の民には珍しい光悦茶色の髪。  他でもない王妃・彗天である。  彗天は普段の女官をぞろぞろと引き連れた散策ではなく、側仕えの女官のみを連れた気軽な散策である。  いけ好かない相手の登場に、無意識に眉間に皺が寄る。  六華の姿を見て彗天が口を開く。 「六華妃。そのような、表情をするものではありませんわ。  お腹の御子に障りますよ」  甘い声音で、六華をやんわりと咎める。 誰のせいだと思って―。  そう言いたいのをぐっと堪え、努めて表情を緩め彗天に六華は揖礼を捧げる。 「王妃様。ご心配ありがたく存じます」  顔を上げた六華は、にこやかに答える。 「世継ぎがお生まれになれば、この国も安泰でございましょう。  無事、満月の晩に皇子がお生まれになれば、更に慶事でございましょう」  六華に視線を合わせ、柔らかな笑みを浮かべる。 「そうなるよう、わたくしも努力してまいります。  王様や王妃様がおらずとも、世を経世できるように。  おふたりにはこれまで、過度な負担を掛けていたようですから」  そう言い、六華は再度揖礼を捧げその場を後にしようとする。 「六華妃」その背を、彗天が呼び止める。  彗天の声に六華はゆっくりと振り返る。 「言い忘れておりました。  ご懐妊おめでとうございます」  それまで朗らかに笑っていた彗天が、一度言葉を切りふと笑みを引きふと遠い眼をする。それから、暫し間を開け再度口を開く。 「此度の懐妊、初虧様も偃月様もお喜びでございましょう。  ですがこれから、六華妃もご苦労がおありでございましょう。お父様が、あの初虧様ならば尚のこと」 「なにを仰せに?」声に棘が混じる。  甘い声音の奥に隠された、本心が見えず怪訝そうな顔になる。 「懐妊も出産も途中、何があるか分かりませんもの。  初虧様はその件を分かっていらっしゃらない。何も分かっていらっしゃらないのに、満月の晩に皇子を…などあまりに自分勝手だとわたくしは思うのですよ」  彗天は六華に憂いいや、憐れみとも取れる視線を向ける。 「ねぇ六華妃。懐妊はともかく、出産は自然に抗うことは出来ぬものだとは思いませんこと?」  彗天の諭すような物言いに、六華は眉間に皺を寄せ拳を握り締める。 月暈国にとって、王位継承の掟も周易局も必要なこと―。  どちらも、存在するからこそこの国はこれまで目立った乱世もなく、経世できていたのだと、六華だけではなく初虧も自負している。 万が一、どちらも無くなるようなことは、国の行く末に直結する―。  彗天の物言いは、まるで王位継承の掟を、周易局を、更に言えばこの国の仕組みそのものを頭から批判するようなものである。  六華の胸中など知らぬまま、彗天は再び朗らかな笑みを浮かべる。 「お世継ぎの誕生楽しみにしておりますわ。  無事、満月の晩に皇子がお生まれになりますようお祈りしております」  彗天はそのまま「ごきげんよう」と言い、六華とすれ違う。彗天付きの側仕えの女官は、すれ違い際に小さく会釈をする。  彗天と女官の背を六華は鋭く睨みつける。  六華が彗天と対峙する数刻前に話は遡る。  初虧は周易局に足を向けていた。あと半刻(一時間)もすれば、日の入りを向かえそれと同時に周易局での職務が始まる。 「初虧様」突如背後から男の声で名を呼ばれ、ふと足を止める。振り返った初虧の眼に映ったのは、骨太で大柄な体格と人の良さそうな恵比須顔。いかにも、好々爺という言葉が良く似合う人物。  王妃・彗天の父親にして、丞相でもある珀惺である。   「何か御用でございますか。珀惺様」  努めて平坦な声を出す。 「六華妃のご体調は如何かと思いまして」  物言いは穏やかだが、微かに棘が混じる。 娘と物言いがよく似ている―。 さすが親子というべきか―。  恐らくこれは、単に六華の体調を案じているだけではないだろう。本来ならば、此度の懐妊は王妃の慶事になるはずである。  それを、六華が叶えていることは珀惺としては面白くないだろう。  故に、誠に六華の体調を案じているのかどうかさえ怪しい。 「まだ、本調子とはいかず寝込んでいることも多く、親としては娘の体調を案じております。  幸い、雲霓様や側仕えの女官が良くしてくれているようで」  淡々と話す初虧を、珀惺は頬を緩め笑みを浮かべ頷いている。その表情の裏に、隠されている本音が見えず、初虧としては珀惺を怖いと思う。 「お生まれになるお世継ぎが、皇子であれば初虧様もご安心でございましょう」  初虧の胸中など、気にもせず穏やかな口調のまま珀惺が言う。 「えぇ。ですが、お世継ぎは産まれれば誰でも良いという訳ではございません。  満月の晩に生を受けた、正当な皇子でなければ意味がない」  初虧はきっぱりと言い切る。 「それ故、初虧様はなにをなさるおつもりで?  まさか、何もせずただ指を咥えて見ていらっしゃるだけではないでしょう。わたくしが思うに、初虧様はそのような方ではございません」  先程の穏やかな物言いから、挑発的な物言いに変化する。 良くわかっている―。  珀惺の物言いに初虧は嗤う。  珀惺の挑発は当たっている。  初虧とて、このまま出産の時までなにもせず、指を咥えて見ているつもりなど毛頭ない。  満月の晩に、皇子が産まれるのならばあらゆる手を尽くすつもりだ。  娘の感情を無視した、欲の為に動く酷い父親だと思うだろう。  だが、六華も世継ぎの皇子に恵まれ、己が王妃に即位することを渇望している。  父親が娘の望みを叶えようと、手を尽くして何が悪いと初虧は思う。  初虧は、己が周りから“古狸”だの“国の安泰より、己の欲を優先している”だの、陰で悪口を言われていることは承知している。  だが、初虧としてはそのようなことどうでもいいことだ。 国の掟に則り、国政を進めてなにが悪い―。 その欲が結果的に、国を弥栄にするのならば、良いのではないか―。  国を弥栄にするには、ある程度の欲深さが必要だと初虧は思っている。 「流石、珀惺様にはわたくしが思案していることは、お見通しのようで。  勿論、あらゆる手段を尽くすつもりです。  火紗国から入国した巫女。朱羅と言いましたか。彼女にひとつお力添えを頼もうかと」  それが最善の策だと言わんばかりに、嬉々として話す初虧を珀惺は「左様でございますか」と興味なさそうに、冷めた視線で相槌を打つ。 そんなことを確認するために、わざわざ私を呼び止めたのか―?  六華の体調や初虧の動きなど、どれも分かり切ったことを問う珀惺に対する、猜疑心が募る。 ここで糾弾しても、珀惺は目的など明かさない―。  そう思案し初虧は微かに頭を振る。 「そろそろ。お暇いたします。  周易局での職務が待っていますので」  暇を告げ身を翻す。が、その背に珀惺が「初虧様」と声を掛ける。初虧が振り向くよりも先に口を開く。 「わたくしは貴方様が、どのような策を講じようともさして興味関心はございません。  ですが、その策が誠に国の為に、六華妃の為になるのか、一度ご自分の胸に問うてください。己の欲のみで、物事を…しかも神聖な懐妊や出産を動かすことを、周りはどうお思いになるでしょう。  懐妊や出産は何があるか分からない、とわたくしは思うております。  どうか、ゆめゆめお忘れなきよう」  淡々とした物言いだが、声音には初虧の言動を咎めるようなざらつきが残る。  珀惺は「失礼いたします」と、内廷に足を向ける。  恐らく今、初虧が口にしたことを内廷に伝えるつもりだろう。 どうなっても構わない―。  初虧としては、満月の晩に皇子が産まれ、六華が王妃に即位すればなにも言うことはない。己の処遇は、どうなっても構わないとさえ思う。    そのように、六華の王妃の座に執着する己が滑稽に思え、初虧は自虐的に笑い身を翻した。
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