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尽力
朱羅が巫女として、月暈国に潜入してひと月半程経過した。
国王に拝謁した頃は、黴雨の末期で雨が降り続いていたが、今では日中は厳しい日差しが照り付けるが、朝晩は涼しく夜には鈴虫の音が耳に届く。
四季のない故郷の火紗国では、絶対に味わえない気候だと朱羅は思う。
月暈国に潜入し、巫女として動いている朱羅が勘違いしていたことがひとつある。
それは、巫女は朱羅ひとりであると。実際は、朱羅と同じ身頃の少女ら十数人が、巫女という職に就いている。
最初、華炎から“巫女”として月暈国への潜入を求められた際、朱羅は抵抗した。巫女ではなく、一介の女官に過ぎない己が異国の宮廷に潜入するなど無謀だと。
だが実際、言語を覚え潜入し実感したのは、十数人の少女らのなかに己が紛れても、案外気づかれる心配はないということだ。そこに、巫女の姿をした少女らがいれば、周易局の官吏はおろか、他の女官や官吏も巫女だと自負する。まさか、朱羅が身分を偽っているなど、夢にも思わないであろう。
周易局に属した朱羅は来る日も来る日も、舞や詩歌の訓練に励んでいる。
官吏は日没がら夜明けまでの職務だが、巫女は日中は舞や詩歌の訓練をし、日に没からは官吏らと共に国の行く末を占う。
巫女らは全員、周易局の傍に建つ宿舎で、ひとり一部屋与えられ寝起きする。
朱羅の祖国・火紗国は女帝が政の実権を握るが、通常女性が国政に関わることは、あまり良しとされていない。だが、巫女の待遇を見ると、月暈国という国がどれ程、周易局ありきで国を治めているか実感する。
勿論、国王や摂政である太后も宮廷内には存在する。しかし、政の実権を握っているのは他でもない周易局そのもの。
舞も詩歌も一見、周易とは無関係に思える訓練だが、これは月暈国での巫女の有りように関係する。
“巫女”は神の言葉を舞や唄で伝える者―。
それ故か、他国では宴や即位の儀の際に、舞や詩歌管弦を披露する宮妓が存在するのに対し、月暈国ではこれらの儀式の際には周易局に属する巫女が舞や詩歌を披露する。
朱羅も他の巫女らと共に、管弦の音に合わせ見よう見まねで身体を動かす。
十数人の白い衣に瑠璃紺色の裙を纏う少女が、一斉に同じ動きをする。裙には金の色で細やかな刺繍が施されている。少女らは顔こそ違うが、同じ襦裙に身を包み、同じ髪型に結っている。
その光景は、朱羅にとって未知のものである。
少女らがくるりと身を翻す度に、肩から流している薄い天色の披帛も翻る。
日の入りが近づくと、職務のため次々と官吏が周易局に参内する。
その日初虧は朱羅を見かけ声を掛けた。朱羅様、と声を掛け彼女の反応を窺う。
身頃は数え十八ほど。いや、もしかしたらもう少し下かもしれない。巫女と聞くと、どうしても神秘的な人物を思い浮かべるが、朱羅はどこかあどけない少女のような人物である。
だが、初虧としては例え得体の知れない巫女でも、彼女を頼るしか術はない。己のことを周知している者に頼めば、直ぐに他の官吏や女官に奇聞が流れることは避けられない。
異国から来た朱羅ならば、他の官吏や女官と慣れ合う心配はない。彼女がいつまで、国に滞在するかは不明だが、大して長い期間ではないだろうと自負している。
だが、国の行く末に関わる話だ。朱羅には、他言無用だと口止めをする必要がある。
初虧は朱羅を、他の者から避けるように隅に誘導する。朱羅より初虧の方が背が高いため、自然と朱羅が初虧を見上げるような体勢になる。
「何用でございましょう」朱羅の平坦な声。
通常、異国から来た己が初虧のような、長官に声を掛けられれば、多少は警戒する素振りを見せるものだが、朱羅は大して驚きもせず平坦な態度である。
最も、彼女の態度が巫女だからなのか、それとも元からのひととなりからか、初虧には釈然としない。
「して、ご用件は?」問いに答えることなく、じっと見下ろしていた初虧に、朱羅は見上げたまま再度問う。
「娘が懐妊したことは知っているか」
初虧は手短に問う。だが朱羅は問いに答えることもせず、ただじっと見上げている。
その姿を見、もしや言葉が通じなかったのか、と初虧は思案する。皓月との拝謁の際の様子や、これまでの様子から通訳なしで会話は成り立っているが、聞きなれない言い回しは聞き取り理解することは困難だろうと思案している。
今から火紗国の言語に明るい者を連れて来るか、別の方法で伝えるか初虧が思案していると、朱羅が微かに頷く。どうやら、言葉が通じなかった訳ではないらしい。
この方は、なにをするつもりだろう―?
初虧の胸中などどこ吹く風で、朱羅は思案していた。
国政の中枢を担う、周易局の長官が異国から来た者に、声を掛る目的が検討も付かない。
当然、妃の懐妊の件は朱羅の耳にも届いている。懐妊をした妃が王妃ではないことも。
だが、所詮異国での話。どの妃が懐妊しようが、朱羅にとって無関係な話なのだ。
朱羅が微かに頷いたことで、話を進めらると初虧は思案し口を開く。
「頼みがある。
生まれてくる御子が男児であるよう、更に言えば王位継承が可能な満月の晩を選んで産まれてくるよう、尽力してもらいたい」
初虧の頼みに、朱羅は怪訝そうな顔をする。
この国の王位継承に関する掟は、朱羅も承知している。だが、幾ら国の為とはいえ、そこまで掟に拘る…いや、執着する理由が分からない。
朱羅の表情を見た初虧は、自虐的に鼻で笑う。己がどれ程、身勝手なことを口にしているか初虧自身も承知している。
「そのような反応をするそなたの気持ちも分かる。
王位継承の掟など、異国から来たそなたには滑稽に思うであろう。
だが此度、懐妊をしたのは私の娘だ。娘は満月の晩に、男児が生まれることを渇望している。親として、娘の願いを叶えてやりたい。
娘はいづれ、この国の王妃になるであろう。その御子は、満月の晩に生まれれば君主となる。
君主や女官らが、襲名制の火紗国では王位継承は血の繋がりなど、どうでも良いであろう。だが、我が国は違う。
時期君主には、国王と血の繋がりのある、満月の晩に生まれた男児が即位することが、必要不可欠だ」
朗々と語る初虧を、朱羅は無表情で見つめている。
朱羅の祖国・火紗国は、女帝だけではなく女官も宮廷に入内する際、親が付けた名ではなく、新たな名が与えられる。
朱羅という名も、元は違う名であり、宮廷に入内する際に与えられたものである。
これは、一度宮廷に入内すれば、例え女官といえそう簡単に外に出ることは叶わない。
故に、名を変えることは、これまでの人生を捨て、俗世と関りを断つことを意味している。
更に女帝の華炎という名は、代々火紗国の女帝が受け継いでいる名であり、朱羅も彼女が即位する前は、どう呼ばれていたか記憶が定かではない。
女帝の名が襲名性だからなのか、火紗国では他国のように、次期国王が必ずしも王の血筋でなければならない、という雰囲気でもない。
一応、年齢制限や女官以外という縛りはあるが、国を経世する力がある女性ならば、生まれに関係なく君主の地位に就くことができる。
そのような祖国の内情を知るからこそ、初虧の言動が余計に釈然としないのだろう。
朱羅は初虧の頼みを承諾するか否か逡巡する。
初虧の言う“尽力”とは、何を意味するのか。それが分からない限り、安易に頼みを引き受けるべきではない、と理解している。
だが、頼みを承諾すれば、今よりも初虧や懐妊をしたという妃、更には妃の夫にも関わることが出来る。
“周易局の長官とその娘、更には夫に取り入ること―”
これが、朱羅に課された王命である。
頼みを引き受け、初虧らに深く関わることが出来れば、王命を遂行することは容易になる。
朱羅は徐に口を開く。
「貴方様のいう“尽力”とはいったい、なにをするのでしょう」
己の要望に興味を向けたと思ったのか初虧は嗤う。
「難しいことを頼む訳ではない。
普段通り、神の言葉を伝えること。娘のお腹の子は満月の晩に、生まれるのかどうか」
普段の職務と大差ない内容に、朱羅の猜疑心は更に強まる。
娘のためと言いながら、実際は己の欲のために動く初虧のことだ。恐らく、尽力はそれだけではないだろうと思案する。
幾ら王命の遂行のためとはいえ、やはり安易に頼みを了承するべきではない―。
「少しお時間をいただけますか」
思わぬ返答に、初虧は怪訝そうな顔をする。
恐らく、二つ返事で了承するものだと、思い込んでいたのだろう。
朱羅は会釈をし、くるりと踵を返した。
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