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信託
雲月が白陽の元に引き取られるまで、ひと月を切っている。
例年ならば、一年で最も寒い時期のはずだが、今年は暖冬なのか日差しの温もりを感じさせ雪がちらつくこともない。
この暖冬とも呼べる気候に、盈月と秀鈴はほっと胸を撫で下ろしている。
この気候なら、皓月が体調を崩し寝込むことはないだろうと思案する。身体の弱い皓月にとって、気候の変動や天候の変化は大敵である。
故にこの暖冬は、雲月と秀鈴に合わせるに絶好の機会である。
明八つ半(午後三時頃)。
盈月は雲月と秀鈴が待つ宮に続く石段の前で、皓月のおとないを待っていた。暫くすると、皓月が側仕えの女官と数人の内官を連れ、姿を現す。石段の前で足を止めると、皆一斉に揖礼を捧げる。
盈月は膝を折り、皓月と同じ目線になる。
「良いか。これからこの宮の中で、見聞きしたことは誰にも話してはならぬ。例え、側仕えの女官や内官にも。
万が一、漏れるようなことがあれば、余は女官や内官を罪に問わねばならぬ。
この宮の中で見聞きしたことは、そなたの胸に留めておいて欲しい。聡い皓月ならば、容易いことであろう?」
盈月が皓月をじっと凝視する。
「承知いたしました。父上」皓月が鷹揚に頷く。
盈月は人払いを命じ、皓月と共に石段を上る。
宮の前で警備を行っていた内官が、ふたりの姿を認めそっと宮の扉を開ける。内官は石段を降り、ふたりに背を向け仁王立ちをする。
皓月は扉を開け、そっと中に足を踏み入れる。
「母上?」宮に足を踏み入れた皓月は、秀鈴の姿を探しせわしなく視線を動かす。
「こちらですよ。皓月」
奥から、秀鈴の朗らかな声が耳に届く。皓月は奥へと足を進める。
奥では秀鈴が雲月を抱いて、寝台に腰を下ろしている。秀鈴の姿を認めた皓月は、満面の笑みを浮かべる。実に、ふたつき振りの再会である。
「母上!」弾んだ声を掛け、秀鈴と向き合い揖礼を捧げる。
秀鈴は口元で、人差し指を立て頭を振る。どうやら、声を大にするなということらしい。皓月は、慌てて口を両手で覆う。息子の微笑ましい姿に、眼を細め肩を揺らす。
皓月が「失礼します」と断り、秀鈴の隣に腰を下ろす。
「雲月。こちらが、皓月兄上ですよ」
秀鈴が雲月に声を掛けつつ、皓月に見せる。秀鈴の声で、目が覚めたのかそれまで眠っていた雲月が、もぞもぞと手足を動かす。
皓月は恐る恐る、雲月の手に触れる。小さな小さな手が、皓月の白く細い指を握る。
弟の様子に皓月は顔を綻ばせる。兄弟の触れ合いに秀鈴は眼を細めている。
「皓月」秀鈴が表情を引き締め名を呼ぶ。
皓月も同じく神妙な顔をする。
「既に王様から聞いているやも知れませんが、雲月は寒梅が咲く時期に宮廷を出、養子に出すことになっています。故に、今日の対面が貴方には今生の別れとなりましょう。
ですが、だからこそ私も王様も貴方には雲月の存在を、覚えておいて欲しいのです。雲月は宮廷内で、はじめから居なかった者として扱われるでしょう。これまでもこれからも。両親である私や王様でさえも、雲月の名を出すことすら許されません。
貴方も口にせずとも良いですが、胸の奥で雲月のことを忘れず留めておいて欲しい、そう思うております。これから先、貴方が王に即位した暁には、雲月の存在が支えとなるときもありましょう」
秀鈴は静かに言う。
「心得ております」打てば響くように、返事が返ってくる。
たった数え八つの皓月だが、己が将来この国を背負っていかなればならないことは、既に自覚している。それが、己の定めだとも思っている。
秀鈴としては、その王位継承者としての自覚が、生まれつきの身体の弱いことも手伝って、皓月の歳の割に大人びた性格に繋がっていると思っている。
雅趣に富み、歳の割に大人びた性格が、成人し国政に関わる際に、どう影響するのか、秀鈴は時折案じている。
暴君になることはないでしょうが―。
皓月の真剣な表情を見つめる。
万が一、暴君になるようならば私が摂政として、支えれば良い―。
母が子どもを支えるのは当然のこと―。
身体の弱い皓月ならば尚更―。
「母上? どうかなさいましたか?」
難しい顔をしていたのか、皓月がそう声を掛け秀鈴の顔を覗き込む。
秀鈴は表情を解き、慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
「なんでもありませんよ。
さぁ皓月。会わなかったこのふたつき、どのような日々だったのか、どのように過ごしていたのか、母に話してくれますか」
秀鈴の朗らかな物言いに、皓月は笑みを浮かべ頷くと、二ヶ月間の近況を話していく。
寒梅が咲き綻び、微かに早春の気配が混じる。空は薄曇り微かに日が差す。
秀鈴は数人の女官と内官を伴い、内廷から外廷まで歩いている。秀鈴の腕には雲月が抱かれている。雲月にとって、初めて見る外の景色である。
雲月が生を受けて早みつき。ようやく首が座り、あやすと声を上げ笑うことも多くなった。
雲月が宮廷内をみるのも最初で最後。外廷の城門には、盈月と雲月の養父になる白陽が雲月らの到着を、首を長くし待っている。
今日、宮廷を出れば金輪際会うことはない。文字通り、母と子の今生の別れとなる。
別れの時を少しでも遅らそうと、運命に抗うようにこの瞬間をいとおしむように、一歩一歩足を進める。
だが残酷に時は過ぎる。
内廷と外廷を繋ぐ門を潜り、正殿の前まで歩みを進めると、城門の前で秀鈴らの到着を今か今かと待っている、盈月と白陽の姿が見える。
秀鈴は足を止め、艶やかに紅を引いた唇を噛む。雲月を抱いている腕に力を込める。
「王妃様」側仕えの女官が覗き込む。
感傷に浸っている場合ではない―。
雲月を産んでから、こうなることは承知していた―。
頭では国の掟も、王妃としての定めも重々承知している。雲月の母親だから、という理由で掟を反故に出来ないことも。
だが、たった生後みつきの息子を、おいそれと他人に養子に出すなど、誰がするだろう。
雲月のその後の人生への杞憂、息子と離れる寂しさ、様々な感情が秀鈴の足に纏わり付き、歩みを止めさせる。
秀鈴は唇を噛んだまま、再び歩みを進める。
城門の前で立ち止まる。白陽の隣で立っている盈月が微かに頷く。
「白陽様。こちらが、今日より養子となるお子にございます」
白陽に声を掛け、腕に抱いている雲月を見せる。
「かわいらしい……」雲月を見、白陽が莞爾を浮かべしみじみと呟く。
「して、字は決めたのか」
白陽の顔をちらりと見言う。白陽は鷹揚に頷き、口を開く。
「字は“天雲”にございます。天に雲と書いて天雲。
いかかでしょう。王様、王妃様」
暫しの間を開け、「天雲か……」と呟いたのは盈月である。
「良い名ですね」秀鈴が賛同の意を示す。秀鈴の言葉に、盈月が「あぁ」と低く答える。
白陽から字を聞いたことで、秀鈴の胸中に覚悟が生まれる。そんな秀鈴の胸中を知ってか知らずか、白陽が口を開く。
「王妃様。
わたくしが大切な皇子を、責任を持って育てて参ります。王様や王妃様に恥じぬよう、どこに出しても良い立派な青年に、実の“息子”として」
白陽の言葉に、秀鈴は何度も何度も頷く。眼に光るものが見えたが、白陽は気づかぬ振りをする。
「白陽様」秀鈴は名を呼び、そっと雲月を白陽の腕の中に渡す。白陽は秀鈴の手を借り、落とさぬよう腕に力を込める。秀鈴の腕につい先程まで抱いていた、雲月の温もりが残っている。
幸か不幸か、白陽に抱かれても雲月は泣くどころか、笑い声を上げる。雲月の様子を見、秀鈴はほっと胸を撫で下ろす。
人見知りが始まる前で良かった―。
もしこの場で泣かれた場合、養子に出すことを白紙に戻していただろう―。
「天雲のことよろしくお願いいたします」
努めて笑みを浮かべ、秀鈴は揖礼を捧げる。
二人のやり取りを見ていた盈月が口を開く。
「名残は尽きぬだろうが、そろそろ良いか」
盈月の言葉に白陽が頷く。
白陽は礼を取り、くるりと身を翻す。城門を潜ろうとしたその刹那―。
秀鈴は「白陽様。お待ちください!」と声を張る。白陽が振り向けば、そこには唇を噛み肩を震わせる秀鈴の姿。瞳は潤み、必死に泣くまいと堪えているようである。
秀鈴は洟を啜り、白陽のもとまで歩みを進める。そして白陽と対峙すると、己の襦裙の帯に付けている佩玉を外す。
佩玉は月長石(ムーンストーン)で出来た円状の壁に、紺碧色の房飾りの付いたものである。
秀鈴はそっと、雲月に佩玉を握らせる。
「王妃様」秀鈴の言動を見ていた側仕えの女官が、声を上ずらせる。
通常、佩玉は持ち主の身分を周りの者に伝え、持ち主のおとないを知らせる役割を持っている。その佩玉を、他の者に渡すなどあり得ないことである。例え、実の息子であったとしても。
秀鈴は女官をちらりと見やり頭を振る。
「良いのです。同じものを、尚功の女官に作ってもらえば良いのですから」
尚功とは、王族が身に着ける飾り物を管理する部署である。
秀鈴は再度、雲月に視線を戻すと口を開く。
「覚えていて欲しいのです。天雲に生みの母がいることを、たったみつきでも一日も欠かさず、抱き乳を飲ませ愛情を注いだ母がいるのだと。
わたくしは二度と、天雲には会うことは叶いません。この佩玉は、天雲に生みの母がいた証となりましょう」
秀鈴は泣き笑いの表情をする。
雲月が佩玉をしっかり、握り締めたことを確認すると、白陽は今度こそ身を翻し城門の外へと足を向ける。
白陽の姿が小さくなる様を、秀鈴は目に焼き付ける。白陽の姿が、人混みに紛れると、警備にあたっていた衛尉の官吏の手によって、漆黒の城門が閉じられる。城門が閉じられると同時に、重い音が響く。
その刹那、秀鈴は顔を歪ませ俯き肩を震わせる。
側仕えの女官が胸中を察し、そっと背を擦る。
*********
雲月もとい天雲が白陽の養子となり二十年が経つ。
四年程前に、盈月が崩去し現在は、皓月が王位を継いでいる。とは言え、幼少の頃より病弱なことに変わりはなく、太后となった秀鈴が摂政に付き、実権を握っていると言っても過言ではない。
宵闇の帳が降り、三日月が姿を見せる。西南の方角に、平家星と青星、色白が等間隔で並ぶ、いわゆる冬の大三角を仰ぎ見ることが出来る。また、視線を東に移せば麦星も見ることが出来る。
もうじき桜が開花する季節だが、夜はまだ肌寒い。天雲は鼻を啜り身震いする。
升花色の深衣に包まれた背は五尺八寸(176㎝程)、すらりと伸びた手足に、肩甲骨辺りまで伸ばした漆黒の髪は、後ろ髪半分のみを団子状に縛っている。
「天雲」不意に背後から名を呼ばれ振り返る。背後には、白縹色の衣に白百合色の裙を身に纏った女性が、立っている。
女性の名は玉惺。天雲より数か月早く生まれた、数え二十の白陽の愛娘である。
「風邪引くよ」玉惺は微笑む。玉惺の言葉に天雲は「あぁ。もう戻る」と答える。
白陽の妻であり天雲の養母、更に言えば玉惺の母親は、数年前に亡くなりそれ以来、家事の一切を玉惺が担っている。
天雲とは同い年だが、料理上手で手先の器用な玉惺は、彼にとって姉のような存在である。
玉惺は踵を返し、家の中に入っていく。間を置いて、天雲もそれに続く。
天雲はまだ知らない。
己の出生の秘密を、この先その秘密を巡って待ち受ける運命を。何も知らない、数え二十の春である。
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