惹起

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惹起

 数日前の雨天が嘘のように、晴天が広がっている。新緑の葉が雨水を弾きみずみずしい。    皓月は幻雲宮にて、彩雲の手を借りながら深衣に袖を通す。これから、秀鈴が待つ正殿に向かうのである。 「太后様はなんと?」彩雲が静かに問う。  彩雲の声は常に澄んで静かだ。まるで、流れの変わらぬ穏やかな渓流の水のように。これは、彼が冷静で己の感情を出すことを苦手としている人柄も関係しているかのように思う。  彩雲の問いに「さあ」と返す。一拍置いて、「兎に角、体調が良くなったら来るようにと」と付け加える。 「左様ですか」と彩雲の声。  彩雲は深衣に皺がないことを再度確かめ、微かに頷く。  宮の外に出ると、皓月はぐっと背伸びをし深呼吸する。最近は宮に籠りきっていたからか、日差しが眩しく感じ思わず眼を閉じる。    月暈国の内廷は、五つの宮と内官の所管である内侍省(ないじしょう)殿中省(でんちゅうしょう)・秘書省が回廊(かいろう)で繋がれている。  回廊に繋がる石段を降りると、女官らの管轄の部署(尚宮・尚食・尚服・尚義・尚寝・尚功)があり、各部署の女官らが往来している。  五つの宮の扉の前には、宮廷の警備を所管する衛尉の官吏が左右一人ずつ、仁王立ちして不審な動きがないか眼光鋭く見下ろしている。  皓月らは、彩雲をはじめとした数人の内官と女官を引き連れ、回廊を進み石段を降りる。  外廷に続く門の前で足を止める。内廷で門の警備や、王族の警護を所管する宮闈(きゅうい)局の内官が皓月の姿を認めると揖礼を捧げる。  外廷に続く門が開く。門が開くと最初に眼に飛び込んでくるのは、正殿の裏手である。  皓月は正殿の脇を通り、正殿へ続く石段まで足を進める。  石段の上、即ち正殿の前では、何故か初虧が皓月らを見下ろし、形ばかりの揖礼をする。 何故―。  初虧の姿を認めた皓月は、眉を顰める。  周易局の長官である彼が、外廷にいることはなんの疑問もない。しかし通常、周易局の仕事は日の入りから朝議の終了時まで。更に言えば、今日は朝議が予定されておらず、初虧がこの場にいることは不自然である。  彩雲以外の内官と女官を石段の前で待機させ、彩雲と共に石段を上る。 「お待ちしておりました。王様。  お加減いかがでしょうか」  初は笑みを浮かべ、朗らかに問う。その口振りと声音に、皓月は何とも言えない薄気味悪さを感じる。 「太后様。王様がお越しになりました」  皓月の胸中など気にも留めずに、正殿の扉の前で初虧が声を張る。    中の反応を待たず、初虧が二重に閉じられた正殿の扉を開く。 「中へどうぞ。太后様がお待ちです」  そう皓月と彩雲を中へと誘う。二人は、互いに目配せをし正殿に足を踏み入れる。  がらんとした正殿で、秀鈴がひとり玉座に続く階の前で正面を向いて立っている。  秀鈴の姿を認めた彩雲は、すぐさま跪いて頭を垂れる。 「王様。  ここでの話は、内官にはご内密に願います。国政に関わることですので」  国政に関わらない内官には、聞かせたくない話なのだろう。即ち、人払いである。  皓月は背後で跪いている彩雲に視線を移す。 「彩雲。聞こえたか」皓月の声に、彩雲は「御意」と短く返事をすると、すぐさま正殿の出入り口に足を向ける。  彩雲は正殿の外に出ると、建物に背を向け仁王立ちする。耳を澄ますと、微かに話し声が聞こえて来る。 ここなら、文句も言われないだろう―。  幾ら秀鈴が、聞かせたくない話だとしても、彩雲としてはどのような要件なのか、気が気でならない。  皓月は秀鈴と無言で見つめ合う。  髪に白いものが混じり始め、目尻や口元には微かに影が付く。久しぶりに、母親の顔をまじまじと見つめ、秀鈴の数え知命(ちめい)(五十歳)過ぎという年齢を考える。  彩雲が去ったことを確かめると、秀鈴は隣にいる初虧と視線を合わせ、微かに頷くと口を開く。 「話というのは、他でもない王様の進退についてです」 進退―?  秀鈴の口から出た言葉に、皓月は耳を疑う。 「勘違いなさいませんよう。別に、退位せよと申し上げている訳ではございません。 ただ…お身体のことを考えても、暫くの間ご静養に出られては? 今のままでは、お辛いのではございませんか。  国内に抵抗があるのなら、天香国の行宮(あんぐう)でも構いません。新しく即位した王は、とてもお優しい方だとか。故に、こちらが頼めば快く承諾してくださるでしょう。天香国は自然が豊かで、気候も良く、ご静養にうってつけの国だと思っております」  秀鈴の言葉を聞きながら、皓月は眉間に皺を寄せる。 これでは静養ではなく、退位を求めているのと同じではないのか―?  胸中に秀鈴への不信感が募る。 「傀儡(かいらい)の王は、宮廷や国に要らぬと仰せですか」  皓月は声を大にし、ふたりを睨み付ける。秀鈴は鋭い視線をもろともせず、笑みを浮かべゆっくりと頭を振る。 「そうではありません。  わたくしは母として、貴方の身体を案じているのです。  母親が息子の身を案じてなにが悪いというのです?」  そう話す秀鈴の表情は、太后としてではなく穏やかな母の顔である。  視線の鋭さを保ったまま初虧に視線を移し、皓月は口を開く。 「初虧。そなたもそう思うているのか。余が静養に出た方が良いと」  皓月の問いに、初虧は険しい表情を緩めることなく口を開く。 「わたくしはその手もあり得ると思うております。  ですが、強引にご静養に出すつもりはございません。あくまで、王様がご納得していただけるのならば、の話です。  ですが王様一度、宮廷や国政から距離を置いた方が、お身体の為にも良いのではございませんか。今の状態では、負担が大きすぎるのでは?  国政のことはご心配なきよう。お戻りになるまでの間、今まで通り太后様と丞相が経世いたします。勿論わたくしも、微力ながらおふたりをお支えいたします」  まんざらでもない口振りに、皓月は変わらず初虧を睨み付ける。  秀鈴や初虧の言い分も、一理あると思っている。  己が病弱なのも、そのせいで満足に国政に関われないことも、世継ぎを望めないことも、民や臣下から “名ばかりの王” “太后の傀儡” と揶揄(やゆ)されていることも事実。  なにより、己の境遇のせいで王妃である彗天に肩身の狭い思いをさせていることが、歯痒く憤りを覚える。  このような時、雲月がいてくれたらと思わずにはいられない。彼が今でも、皇子といて宮廷で生活していたのなら、己の憤りを受け止めてくれるのではないか―。  ないものねだりでしかない、と分かっていても。  何も言わぬ皓月に、初虧はもう一押しと言わんばかりに再度口を開く。 「王妃様とも良くお話になって、進退をお決めください。  わたくしといたしましては、王様にとって決して悪い話ではないと存じております」  初虧は秀鈴の意向を確かめるように、彼女と視線を合わせる。秀鈴は曖昧に頷く。  正殿を去る間際。秀鈴が「王様」と声を掛ける。 「火紗(かしゃ)国から書簡が届きました。  近日中に巫女を一人寄越す故、周易局で面倒を見て欲しいと」  皓月は眉を顰める。 他国の巫女が何故―?  初虧を見やるが、彼は承知していることらしく、無言で頷く。  月暈国の隣に位置する火紗国は、女帝・華炎(かえん)が実権を握る小国である。  砂漠に囲まれ、民は宆盧(きゅうろ)を組み立て、駱駝や山羊と共に移動しながら生活を営む。  朝晩と日中の寒暖差が大きく、四季のない風土を持ち、月暈国や天香国は服装や言語が異なる。 巫女を我が国に寄越して、君主の目的はなんだ―?  華炎は皓月より十程、歳が下である。そのためか、皓月としては今一彼女の経世の仕方が掴めない。  火紗国は月暈国のような、占で経世する特徴はない。なのに何故、“巫女”を寄越すのか。それとも……。 寄越さなければならない事情でもあるのか―?  ただ万が一の為に、繋がりを持っておきたいだけならば良い。そうではなく、間諜として送り込むのが目的ならば……。  こちらとしても、火紗国と繋がりを持っておいた方が良いだろう、と思案し頷く。 「巫女の件、了承したと伝えよ」  そう言うと、ふたりの返事を待たず出入口に足を進める。  扉が開く音がし、彩雲は背後を振り返る。皓月は眉間に皺を寄せ、難しい顔をし石段を降りる。彩雲は無言で後を追う。  皓月はちらりと背後を見やり、「内廷に戻る」と短く言う。打てば響くように、「御意」と彩雲の声が返ってくる。  彩雲が口を開いたのは、内廷の門をくぐり暫く経ってからである。 「ご静養とは聞こえは良いですが、即ち退位せよと同意でございましょう。太后様も初虧様も、薄情なことをなさる」  皓月は目を瞠り足を止める 会話を聞かれていた―?  皓月の様子に、彩雲は決まり悪そうに視線を逸らす。 「申し訳ございません。立ち聞きするつもりはなかったのですが、声が漏れ聞こえておりました故、否応なしに」  言葉では謝意を述べるが、声音はそうでもない。まるで、内官として主に関することならば耳に入れて当然だ、と言わんばかりの物言いである。  皓月としては、会話を聞かれていたことに驚きはしたが、嫌悪感は薄い。宮廷という閉鎖的な空間では、奇聞が回るのが早い。故に遅かれ早かれ、先程の正殿での会話は、奇聞となり外廷・内廷関係なく飛び交うだろうと推測する。 「恐らく静養を言い出したのは、母上ではなく初虧であろう」  彩雲は静かに頷く。  初虧は以前から、国や王室の繁栄より、己の欲を優先する節がある。故に、此度の件も皓月が退位を呑めば、己の娘である六華妃は王妃となり、自分は外戚として国政を牛耳ることが目的であり、皓月の体調を案じる気遣いは微塵もない。  秀鈴も本音では、息子を退位などさせなくないはずである。しかし、今の国政を保っているのは、珀惺や初虧が尽力してくれていることが大きい。初虧に刃向かうことは、秀鈴の立場上これまで尽力をしてくれていた初虧を裏切ることと同意である。  恐らく、初虧も秀鈴の状況を分かった上で、彼女を利用している。 「あの古狸め……」初虧の顔を思い浮かべると、皓月の口からつい低い声が漏れた。 「まぁ、王様。一国の王がそのような悪口(あっこう)を、口にするべきではありませんわ。宮廷は、誰が聞いていらっしゃるか分かりませんもの。例え本心だとしても」  不意に女性の甘い声音が耳に届き、皓月はぎくりと肩を竦ませる。この宮廷内で、甘い声音と慇懃な物言いをするのは、一人しかいない。  皓月は恐る恐る、声の聞こえた方に視線を移す。 「王妃……」予想通りの声の主に、苦笑いを浮かべる。  声の主は、王妃・彗天である。彼女は皓月と視線を合わせると、笑みを浮かべる。彗天の姿を認めた彩雲は、無言ですぐさま跪き視線を下に落とし頭を垂れる。  彗天は濃藍(こいあい)色の衣に、瑠璃紺色の裙を合わせている。衣の袖と裙の裾には、金色の糸で細かな雷雲紋の刺繍が施され、衣の胸の部分に同じく金色の糸で宝相華(ほうそうげ)の柄が刺繍されている。  彗天の額には、月長石を用いた冠が揺れ、一度も日に当たったことがないような白い肌に映える。月暈国の民には珍しい、色素の薄い艶やかな光悦茶色の長い髪を束ねている。毛先は波打ち、光沢を放っている。 「別に初虧の悪口ではなく……」  彗天は笑みを浮かべたまま、皓月の唇にそっと人差し指を立て頭を振る。その意味を理解し、皓月は口を紡ぐ。 「王様。本人のいない場で影口を叩くより、正々堂々と朝議の場でご発言なされた方が、良いとは思いませんこと?  あの方が古狸なのは、わたくしも主知しております。だからこそ、あのようなお方は、一度醜態を晒させた方が大人しくなるのではございませんか」  王妃とは思えない物言いに皓月は勿論、彗天の背後に控えている女官や内官も苦笑いを浮かべている。 「王様にお許しいただけるのならば、わたくしが直接初虧様に申し上げても良いのですが……。それでは、痛くも痒くもございませんもの。  やはり、王様ご自身で仰せになるべきですわ」  嬉々として彗天は言う。  彗天が遅くに出来た子故か、父である珀惺は彼女を蝶よ花よと溺愛している。それ故か、彗天は健気で大人しい人柄である。だが時に、此度のように毒を含んだ発言をする。皓月らとしては、彼女の毒を含んだ発言が名家の娘という家柄から天然か、もしくは意図的なものなのか今一釈然としない。  どちらにせよ、皓月にとって彗天は毒にも薬にもなる人物であり、決して逆らうべきではない人物である。    彗天は瞳を閉じ、再度口を開く。 「わたくしは王妃です。お父様ならばまだしも、初虧様に王妃が政に口を挟むべきではありませんでしょう?」  瞼を開け確認を取るように小首を傾げる。  彗天の物言いに、どのような反応をするのが然りか掴めず、皆沈黙を貫く。  ただ、王妃が臣下に国政に対する進言をするなど、月暈国では決して褒められたことではない。  皓月は低い声で「あぁ」と告げるのが精一杯であった。    己の進退と、火紗国が寄越すという巫女―。  ふたつの事柄に、皓月は深く息を吐く。治まったはずの、頭重感がぶり返した気がして、皓月は頭を振り宮に足を進めた。
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