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都邑
推測した通り、皓月が静養に向かう旨は五日としない内に、宮廷だけではなく都にも話が届いていた。あろうことか、静養の後に場合によっては退位するやも…という尾ひれが付いた形で。
奇聞は勿論、天雲と玉惺の耳にも入っている。
「王様が退位なさるかやもしれん」
周易局での務めを終え、帰宅した白陽が低い声でそう漏らしたのは、秀鈴が皓月を呼び出して五日ほど経過した頃である。
既に夜が明け、灰色の雲が空を覆い、生ぬるい風が吹いている。
思ってもいない発言に、邸の外で白陽の帰りを待っていた天雲と玉惺は、怪訝そうにお互い顔を見合わせる。
ふたりとも、王が病弱な為に太后が摂政をしていることは知っていても、それ以上の情報を持ち合わせていない。
いくら白陽が周易局の官吏だとしても、おいそれと宮廷内のましてや政に関する機密事項まで具に知る機会はない。
どの国でも、王族や政に関わるのは選ばれた民のみ。一般の民とって、王族は雲の上の存在。姿を見て言葉を交わすことすら、一生で一度あるかどうか。それは、この月暈国でも変わらない。
それ故、内廷や政の動きは、天雲と玉惺にはどうしても遠い絵空事のように映る。
白陽としては、遅かれ早かれ太后か初虧のどちらかが、退位を迫るだろうと予想していた。朝廷では今の王は、弟が王位を継ぐまでのつなぎだという、風潮が強い。
政もせず世継ぎを残すでもない、ただ“国王”という名を与えられた存在。
弟の正妻である六華妃は、初虧の娘故か星の動きや月の満ち欠けを、読むことに長けていると聞く。
恐らく弟が即位した暁には、初虧はより周易局を強固なものにするのではないか―。
いや。もしかしたら、娘を周易局に関わらせるやも―。
初虧としては、“つなぎ”でしかない今の王を支持するよりも、王の弟を王座に据えた方が好都合である。
白陽がそう思案している最中。天雲と玉惺は全く別のことを思案していた。
「もし王様が退位された場合、父さんはどうなるの?」
先に口を開いたのは玉惺である。
「どうとは?」白陽が問い返す。
「王が変わることは、当然臣下も入れ替えになるのでしょう?
父さんが今まで通り、周易局で勤められるとは限らないんじゃないの?」
玉惺の指摘は至当である。娘の鋭い指摘に、白陽は言葉が詰まる。
通常、御代が変わり新たな王が即位する際には、臣下や官吏をある程度入れ替える。これは、臣下や官吏を入れ替えることでこれまでの国政を一新する為である。
臣下や官吏の人事は吏部が所管する。故に、すべては吏部尚書がどのような人事をするかに委ねられている。
これまでは、白陽が官吏として勤めることで宮廷から給金を得て、玉惺と天雲を養って来た。だが、白陽が官吏を退くことになれば、当然これまで通りの生活を営むのは難しい。
玉惺も天雲も数え二十。そろそろ、己の生業を生き方を決める年齢である。
玉惺の指摘に、白陽は深く息を吐く。
「その件だが……」重い口を開く。
「まず玉惺。そなたは、今まで通り家のことをしてくれると助かる。情けない話だが、今までお前や母さんに任せっきりだったからな……。勿論、父さんも出来ることはやるが。
それに気立ての良いお前なら、こちらが言わずとも働く伝手はあるのだろう?」
白陽は悪戯を企むような表情を見せる。
白陽としては、玉惺のことはそこまで案じていない。器量良しで、気立ての良い玉惺のことだ。伝手を当たって、白陽が官吏を退いた後に自分が生活していくか、働き口の目星を付けているだろうと推測している。
玉惺としてもまんざらではないのだろう。父親の物言いに、静かに微笑を浮かべ頷く。
白陽にとって、玉惺より気がかりなのは天雲のこの先の行く末である。
白陽は天雲を引き取る前に、彼の実父である先王・盈月から官吏の登用試験を受けることは勿論、宮廷に関わることさえも禁ずる、と言い渡されている。万が一、禁忌を反故にした場合、白陽の命はないと思えと。
この二十年。出来るだけ天雲を都から遠ざけ、童試や官吏の登用試験に興味関心が向かぬように宮廷の動きを耳に入れぬように、気を張って育ててきた。
このまま一生、都とも宮廷とも関りを持たない方が良い―。
それが天雲を護ることは勿論、玉惺を護ることにも繋がる―。
白陽は天雲の出生に秘密が露見され、一家が境地に立たされることを最も恐れている。
故に、己が官吏の職を退いた後の行く末は、慎重に検討してきた。
白陽は深呼吸をし、一拍置くと徐に口を開く。
「天雲。もし父さんが官吏の職を退いたら、お前は淡月に向かえ。
親戚が藍の栽培を生業にしていてな、男手を欲していた。故に、お前のことを話したら是非と。
住み込みになるが、その分衣食住には苦労しない。どうだ。良い話だろう」
淡月は都の北に位置し、藍の栽培が盛んな地域である。
天雲は真顔でじっと、白陽を見つめている。
表向きは天雲の気持ち次第だが、白陽としては有無を言わせないつもりである。父親として、子どものましてや息子の行く末を本人の承諾なく勝手に決めるなど、本来なら褒められたものではない。
だが、天雲が置かれている状況を鑑みると、この決断が最良であると自負している。
暫し間が開いて、天雲が何かを呟く。白陽の耳には、天雲が呟いた言葉がなにか、聞き取れず「何か言ったか? 天雲」と問う。
「俺が嫌だと言ったら?
俺は都に残って働き口を探す。なんなら、父さんと同じ……」
「駄目だ!!」反射的に天雲の言葉を遮る。思ったよりも、大きな声が出た。
白陽の声と迫力に、天雲と玉惺はびくりと肩を震わせ息を呑む。
天雲は今まで、一度も官吏を目指していると白陽に公言したことはない。ただ、息子が父親の職務に興味関心を持つのは当然のこと。天雲も知らず知らずの内に、いずれ自分も父親と同じように、官吏として宮廷に仕えるのだろうと思案していた。
まさか、頭ごなしに反対されるとは思ってはいなかった。
白陽は声を低くしこう告げる。
「都で働くことは勿論、まして官吏を目指すなど決して許さぬ。
お前の気持ちが分からない訳ではない。どの国でも、息子が父親の仕事に興味関心を示し、同じ道を歩むということはあるだろう。
だが天雲。お前にとって、都で働くことや官吏を目指すこと、更には宮廷に近づくことさえも禁忌だ。
何も言わず、何も聞かず父さんの言う通りにしてくれ」
白陽は深く頭を下げる。
天雲は冷ややかな瞳で、白陽を見つめふっと嗤う。
「なんだよそれ……。
都で働くことも出来ず、官吏を目指すことも出来ない。そのうえ、宮廷に近づくな!? そんな話聞いたこともない!
だったら、俺はこれからどう生きていけば良いんだよ!?
俺が都で働こうが、官吏になろうが、宮廷に近づこうが、父さんや玉惺にはなんの関係もないはずだろ。
ただ、自分の人生を生きたいだけだ!」
感情に身を任せて、捲し立てる天雲の姿。拳を握り締め、肩で息をする。白陽はそれを呆然と見つめるしか術はない。
「これは、お前を護る為だ。いや、お前だけではない玉惺を護ることにも繋がる。
どれだけ、怒りをぶつけても構わない。縁を切るというなら、それでも構わない。頼む、言う通りに淡月へ向かってくれ」
必死に懇願する白陽の姿が、天雲には滑稽に映りため息をひとつ吐き、ゆるゆると首を振る。
「俺を護る為……? 意味が分からない……。
俺の人生だ。自分で決める。指図は受けない。例え、実の父親であっても」
言い切ると、鋭い視線で白陽を睨み付ける。
ふたりの間に流れる、険悪な雰囲気に玉惺はどう言葉を掛けるのが然りか躊躇し、白陽と天雲ふたり交互に視線を送る。
天雲はくるりと背を向け、邸の中に入っていく。
「天雲!」邸の中に入っていく天雲に、玉惺が声を掛け後を追う。
天雲が発した “実の父親” という言葉が、白陽の胸に重くのしかかる。
天雲は白陽が実父だと自負している。己が養子なのは勿論、皇子だとは知らず民として生きている。
誠に実の父親ならば、天雲に将来を諦めさせることも、隠れるように生活させることもなかっただろうに―。
これまで天雲の為だと、自負し行ってきたことが、彼の将来を狭め憤り感じさせる根源になっていることが歯痒い。
白陽は曇天の空を見上げ、深く息を吐く。
天雲が満月の晩に生を受けていたら、このような思いをせずとも良いのではないか―。
今更、どうと出来ることではないと、分かっているがそう思わずにはいられない状況である。
白陽の胸中を察するかのように、雷鳴が聞こえ雨が降り始めた。
* * * * * *
砂漠に囲まれ、駱駝や山羊と共に生活を営む火紗国。
民らが宆廬を組み立て、移動しながら生活を営むこの国において、決まって同じ場所にあるのは、政を行う宮廷ぐらいのものである。
火紗国の宮廷は、小国故か隣国の月暈国や大国の天香国のように、外廷と内廷が別れているのではない。石造りの城壁に囲まれ、分厚い城門が聳え立つ。
城門をくぐると、手前に君主の生活を支える女官の管轄である建物が六棟、そして奥に国政を所管する三省の建物が三棟聳え立っている。
そして、最奥に一際大きな石造りの建物が一棟聳え立っている。この建物は、火紗国唯一の宮であり、若干数え十八の女帝・華炎と彼女を支える、女官と丞相、更に左丞らの生活の場である。
宮の中では、華炎が玉座に腰を下ろし一人の女官と向き合っていた。
華炎の背後には、丞相である煌昴と左丞である照佳が控えている。
華炎は漆黒の癖のない背中まである髪を、後頭部の高い位置で紅葉色の光沢のある長い布で一つに束ね、前髪を眉が隠れる程の長さに切りそろえられている。額には藍玉の飾りが付いた冠が、前髪の間から見え隠れしている。
薄い衣を幾重にも重ね、白百合色の身頃に広い袂は紅葉色に染められている。
華炎と対峙している女官が、眉を顰め戸惑いつつ口を開く。
「華炎様、何故です。何故、わたくしを月暈国などに?
わたくしは一介の女官に過ぎず、巫女として入り込むなど無謀かと。恐らく、早々に露見されるかと存じます」
「朱羅様。
華炎様のご下命でございます故。何卒」
前方から照桂が静かに口添えをする。
「だとしても…!」
朱羅と名を呼ばれた女官は、声を大にする。
朱羅は聴色の薄い衣を幾重にも重ねており、漆黒の少し癖の付いた背中まである髪を、低い位置で束ねている。
沈黙を貫いていた華炎が口を開く。
「“巫女として”というのは表向きの理由。
貴女には間諜として、月暈国に行ってもらう」
冷ややかで有無を言わせる物言いに、朱羅は返す言葉に詰まる。
助けを求めるように、煌昴と照桂に視線を送る。しかし、ふたりとも静かに頷くのみである。
言葉も通じない、慣習の違う国へ間諜として潜り込む。それが、一介のの女官にとってどれ程危険か。
恐らく、間諜だと露見されたら最後。二度と火紗国の土を踏めない可能性もある。
朱羅は意を決して口を開く。
「華炎様。お言葉ですが、わたくしはこの国から出たこともなく、ましてや月暈国の言葉や慣習に明るくはございません。たった一人で異国に向かうなど危険が伴うかと存じます。
故に、此度の件は……」
華炎に異議を唱えるつもりが、彼女の鋭い眼差しに言葉が尻すぼみになる。
「言葉に関しては、月暈国の官吏か宦官の中に火紗国の言葉に明るい者がいるはず。
また、なにも一人で行動せよとは言っていない」
華炎は意味深長な笑みを浮かべる。
「貴女には、ある人物に近づき懐に入り込んでもらう。
そして、来る日に向けての足固めをして欲しい。火紗国がより、富んだ国になるように」
華炎が動くということは、火紗国にとって利点になることなのだろう。
だが、来る日とはどのような日を指すのか、華炎の誠の目的はなにか。
どちらも釈然としないまま、華炎の何か企てているかのような笑みに朱羅は固唾を飲む。
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