不穏

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不穏

 初虧が訪ねて来た日の晩。当に日を跨いでおり、内廷は静寂に包まれている。  六華は宮の外で水を張った甕を覗き込んでいた。  傍には側仕えの女官が控えており、彼女の様子を見守っている。水面に満月が映る。  ざわりと風が吹き、内廷内の木々を揺らす。と、同時に水面が揺れ満月がぐにゃりと歪む。 嫌な予感がする―。  水面の歪みに、六華は顔を強張らせる。  六華が行っているのは、月を水面に映し、風などが原因で起こる素面の歪みで、簡易的に行く末を周易するものである。月暈国ではこれを水鏡(すいきょう)と呼び、周易局に関りがない民にも身近なものである。  ふと水面に影が映る。  六華が何事かと顔をあげる。そこには、夜着である深衣を纏った一人の男性が内官を伴い仁王立ちしていた。  武官と見紛う程の骨太な体格と精悍な目つき。  内官は手に、火が灯った行灯を手にしている。 「水鏡か」男性が低い声で呟く。  彼の名は偃月。六華の夫であり、皓月の弟にあたる。 早速、お父様が内侍省に口添えをしたのだろうか―。 だしても―。  六華は偃月を見上げそう思案する。  通常、お渡りがあるときには、事前に報せが来るものである。湯浴みをし身を清めるなど、迎える側にも準備と心づもりがいる。  何の報せもなく来るのは珍しい。  詩歌管弦に明るく雅趣に富み、穏やかな性格の皓月とは違い、武術に優れ野心家の偃月は、幼い頃から王位継承者と母である秀鈴の期待を一身に背負って来た。  彼の野心家な性格は、王位継承者と言う立場と、母親の育て方が大きく影響していると、六華は自負している。  六華は「左様でございます」と鷹揚に答える。 「そうか」偃月の物言いは常に素っ気ない。  偃月にとって、六華が何に興味を持とうと構わない。妻の趣味嗜好に関して、大して興味関心はないのだ。ただ、六華が荒波を立てず日々を過ごし、世継ぎに恵まれることを望んでいる。  六華としても、偃月が水鏡などの周易に関して、口を挟むことは少ないだろうと自負している。  それは、月暈国が周易によって成り立っており、周易局が存在し機能していることで、国の安寧を保っているからであろう。更に言えば、六華が周易局の長官・初虧の娘であることも関りがあるように思う。  偃月は以前から、政は国の掟に(のっと)り行うべきだと豪語している。故に、水鏡などの周易に口を挟むことは、即ち己の考えは勿論、周易局や初虧を、更には国そのものを裏切ることになる。  次期君主の座を狙う、偃月にとって初虧や周易局、更には国を裏切るような真似はしたくないはずである。  自ら、次期君主に即位する為の機会を反故にするなど、偃月がするはずがない。 「何か見えたのであろう?」  偃月が問う。六華は頷く。 「ことが済んだのなら、中に入れ。外は冷える」  水鏡の結果がどうだったのか、何を見たのか偃月は尋ねない。何か大きな異変があれば、周易局で話題になり宮廷内で、奇聞が流れることを知っているからである。 「ご心配、感謝いたします」  六華は立ち上がり、揖礼を捧げる。偃月の物言いは素っ気なく、常に冷淡で余計なことは口にしない。  しかし、だからと言って六華に対して愛情がない訳ではない。ただ、不器用で口下手なだけなのだ。  六華はそのような夫のことを、好ましく思っている。  六華は傍に控えていた女官に、甕を片付けるよう命じ、宮の出入り口を開け偃月を招き入れる。 「人払いを頼む」宮に入る直前、偃月が女官にそう命じる。 「承知いたしました」女官は揖礼を捧げつつ言う。  宮の扉が閉まる。  暫く間が空き、微かに二人が交わす睦言(むつごと)が、甕を片付けている女官の耳に届く。  早朝。明け六つ半(午前七時頃)、皓月は宮にて指に琴爪をはめ筝と向き合っていた。琴爪を龍甲(りゅうこう)に張られた弦に這わせ、弦を爪弾く。  荘厳な音が宮を満たす。  尚食に朝餉を取りに行っていた彩雲が、宮の外で筝の音に気づき耳を澄ます。  彩雲は粥と煎じ薬が乗った盆を、両手に抱えている。  筝を奏でていることから、体調はまずます良好なのだと思案し頬を緩める。  はじめは単調な音だったのが、次第に列を成し調べに変化する。    幼少の頃より身体が弱く、寝込みがちで皇子という立場上、同い年の子どもと遊ぶことも少なかった皓月に、詩歌管弦を教えたのは他でもない秀鈴である。  恐らく秀鈴としては、境遇の為に消極的になっていた皓月に、ひとつでも得意なものがあれば良い、と将来を案じてのことだろう。  元々の管弦の才があったのか、それとも筝を奏でることが性に合っていたのか、皓月の筝の腕は日に日に上達し、今でも時間を見つけてはこうして向き合い音を奏でるようにしている。  即位し秀鈴が摂政として実権を握っている現在。皓月が政に直接、関わることは少ない。それ故か日がな一日、皓月は筝に向き合い、書物を読み、絵を描く―。  宮の中で、そう過ごしている。  いや―。そうするしかないのだ。今の状況では。秀鈴や初虧、珀惺に頼らず国政を維持することは難しい。  初虧はそこに目を付け、皓月に退位を迫ったのだろう。  音が止んだ。  彩雲は耳を澄まし、筝の音が漏れ聞こえてこないことを確かめると、そっと宮の扉を開ける。 「皓月様」彩雲は宮の奥に進み、また夜着を身に纏ったままの、筝と向き合っている皓月に静かに声を掛ける。  彩雲の声に、皓月はくるりと振り返る。 「もう朝餉の時間か」  そう呟くと、指に嵌めていた琴爪を一つ一つ丁寧に外す。まるで、筝に向き合う時間を惜しむような手つき。筝を部屋の隅に片付けようと、手を伸ばす彩雲を制し自ら筝を手を掛け片付ける。  皓月は文机と対になっている椅子に腰を下ろす。皓月が椅子に腰を下ろしたことを認め、彩雲は朝餉が乗った盆を置く。  盆には銀の器が二つ乗り、それぞれ枸杞(くこ)の実と鶏肉が入った粥と柴胡(サイコ)黄芩(オウゴン)半夏(ハンゲ)大棗(タイソウ)、人参、甘草(カンゾウ)生姜(ショウキョウ)を煮出した煎じ薬が入っている。  生薬と粥、どちらの器からもほかほかと湯気が立つ。  成人を迎えても食の細い皓月に、少しでも食べやすいように、尚食の女官が朝餉を粥にしたのは随分前のこと。  更には、体調を崩すこと頻度が少なくなるように、と主治医の雲霓が処方した身体の免疫機能を整え、日々の疲れを軽減する生薬が必ず共に添えられる。  本音を言えば、朝から苦い生薬など飲みたくないのだが、体調を維持していく為に仕方がないことである。 「百合根や蓮の実があれば、良いのだがな」  粥に入っている枸杞の実を見つめ、皓月がひとりごつ。  ほくほくとした触感の百合根と蓮の実。どちらも、皓月の好物である。  百合根も蓮の実も、酷暑が過ぎ去り木々が紅葉する時期が旬である。幾ら宮廷だとは言え、黴雨が近いこの時期に用意することは難しい。  主の呟きに、彩雲はふっと笑う。だが直ぐに、表情を引き締める。時たま見せる、彩雲の素の表情に普段からもっと笑えば良いのに、と皓月は思う。    彩雲は普段、無駄口を叩くことはない。皓月に仕えて幾年。これまで、彩雲が号泣やましてや呵々大笑しているところを見たことがない。  時折、皓月の言動に微笑を浮かべ、やんわりと嗜めるような物言いをすることから、感情が動かぬことはないのだろう。  彩雲の人柄は良く言えば勤勉で生真面目だが、それは裏を返せばそれだけ融通が利かず、更には感情を出すことが苦手ということでもある。  そうした人柄が勤務態度に現れるのか、彩雲は皓月に対してある程度距離を取っている。国王と内官―。身分の差があると言えばそれまでだが、それだけでは無いように思う。  最も最初から、内官になりたくてなった者などいないだろう。どの国でも、内官は男性の象徴を持たぬ卑しい存在。  事実貧しい村では、口減らしとして男児を宦官にし更に内官として、宮廷に売ることも珍しくない。彩雲自身は己の過去を何も言わぬが、恐らく似たような経験をしているはずだ。  そう思案し粥から彩雲に視線を移し、じっと見つめていると彩雲が口を開く。 「何か?」怪訝そうな口振り。 「いや。特には」皓月は頭を振った。 「粥が冷めてしまいますよ。尚食の女官が、皓月様の為に調理されたものです」  彩雲の小言に頷き、匙を取る。  粥を匙で掬い、ふぅふぅと息を吹きかけ冷ます。皓月は猫舌で、熱いものを苦手とする節がある。  皓月としては、もう少し冷ましてから、配膳しても良いのでは…と思う。  雪が舞うような時期ならともかく、これから黴雨に入りやがて酷暑に向かう時期に、湯気が立つほど暑い料理を出すのもどうかと思い、以前彩雲を通し尚食の女官に意見を述べたことがある。  尚食の女官曰く、料理というものは熱いものは熱いうちに、冷たいものは冷たいうちに食べるのが、最も良いのだと言う。  その時の、女官の言い分を思い出し、なんとも言えない感情が蘇る。  気を取り直し匙を口に運ぶ。まだ多少は熱いが、火傷するような熱さではない。鶏で出汁を取った粥は、優しく胃を満たす。器の底に刻んだ生姜が、食欲を増進させ身体を温める。    粥を半分ほど食べた頃、宮の外から人の話し声が耳に届く。  皓月が匙を動かす手を止め耳を澄ます。しかし、二重に閉じられた扉の中では、人の声だとは把握出来ても、話の内容までは難しい。 「わたくしが」彩雲が声を掛け、出口へと向かう。  暫くして彩雲は、一人の官吏を伴って戻ってきた。  官吏は珀惺と同じ、濃色の深衣を身に纏った数え知命(五十歳)程の身頃である。骨太で大柄な体格の珀惺とは違い、官吏はほっそりとしたというよりひょろりとしたと言った方が似合う体格である。  官吏は恭しく揖礼を捧げ口を開く。 「王様。お初にお目に掛かります。  わたくし、右丞を務めております彗明でございます」  彗明と名乗った官吏は、手本のような口上を述べる。 普段関わりのない右丞が何用だー?  目の前で揖礼を捧げている彗明を見つめ、怪訝そうな顔をする。  濃色の深衣を見る限り、珀惺と同じ政派なのだと見受けられる。だが、朝一番で皓月の元をわざわざ訪ねて来る理由が、今一釈然としない。  主に実権を握る、丞相や左丞に比べて右丞という役職は、どうしても丞相や左丞に隠れてしまい印象に残らない。  それは皓月も例外ではく、こうして目の前にいる官吏が右丞・彗明だと名乗っても、その顔に見覚えはない。だがそれは普段、皓月が朝議の場におらず彗明と顔を合わせる機会が少ないことも理由のように思う。 「して、そなたの要件はなんだ」  釈然とせぬまま問う。  彗明は頭を上げ、皓月の顔をじっと見つめ口を開く。 「王様のお耳に入れて頂きたい儀がございます。  わたくしはそれをお伝えに参りました」  何事だろう―。  朝一番に訪ねてくるぐらいだ。恐らく、それ程重要な事柄なのだろう。  丞相より印象が薄い右丞とはいえ、国政に関わる人物。話が国政絡みなのは、容易に想像が付く。  だが、そうならば何故、秀鈴ではなく己を訪ねて来るのか。 国政絡みではなければ―?  どちらにせよ、話を聞かず判断することは不可能である。  皓月は姿勢を正した。
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