最後の手紙

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 僕はあらためて周囲を見回した。遠くに見える地区と地区はスロープで繋がっており、移動式の床が敷かれていた。目を凝らしてみるとガラス張りのトンネルの中に人影が見えた。  人々は作業着や白衣、制服に身を包んでいる。重たそうで厳重な防具を身につけているのは警備員だろうか。  僕は大地の感触を楽しみながら歩いた。すると、建物の裏手に2メートル四方に囲われた場所を見つけた。囲いはレンガで作られており、茶色い砂が敷き詰められていた。  いや、砂ではない。土だ。  それも本物だ。天然の土だ。人工の土砂ではない。  薬品で成分を調整され、工場から出荷されているものとは違う。水分と一次鉱物、そして微生物とそれらが生み出す有機物が含まれている土。  いま、僕の目の前に天然の土がある。  僕が無言で立ちつくしていると、建物の影から人が出てきた。僕も相手も、突然現れたお互いに驚いた。  向こうは両手を振って何かを喚いているようだった。しかしスピーカーを同調させていないので声が聞こえない。 「あ、あー……聞こえますか?」  僕は音声を外部出力に切り替えて相手に話しかけた。すると相手も腰にある装置を操作して音声を切り替えた。 「何だ、お前。どっから来た」 「突然すみません。僕は来月から研究地区に研修に来る学生です」 「ああ、何だ。子供か」  少しムッとした。僕は既に成人している。そりゃあ背は低いし肩幅も狭い。でも成長期は終わっている。だいたい、子供がこんなところに来れるわけないじゃないか。  相手のヘルメットを覗いてみたが、ダークグリーンのガラスは不透過性で顔はわからなかった。しかし、声色からして壮年ということがわかる。  なんだ。おじさんか。それなら僕が子供に見えても仕方がない。僕はそう思うことにした。  この人はここで何をしているのだろう。研究地区の裏手は何も無い。強いて言えば地平の先に、あの黒い巨大な鉄塔が見えるだけだ。 「何をしているのか聞いてもいいですか」 「何だね、少年。興味があるのか」 「ええ。だってこれ、天然の土でしょう」 「よく分かるな」 「大学の実習で2回ほど本物を見る機会がありました。すごく感動したので、よく覚えています」 「そうか」  どうやら彼は笑っているようだった。バカにするような気配ではなく、何か嬉しそうに微笑んでいる、といった様子だ。そして「よっこら」と言いながら腰を上げた。手にはシャワーの付いたホースを持っている。彼が手元のスイッチを押すと、先端から水が飛び出た。 「野菜を育ててるんだよ。あとそっちは花だ」 「まさか有機栽培ですか?」 「おう」 「すごい! 成功したらヴェルト生物学賞ものだ!」 「成功したらな」  彼は敷地にまんべんなく水を撒きながら言った。茶色い土は水に濡れると焦げ茶色に滲んでいった。  不思議な光景だ。居住区にも雨は降る。だが、あそこの土や砂は水に濡れても変色しない。  彼自身の話も聞いた。彼もこの研究地区で働いていること。勤続35年になること。これは政府に報告している公式研究ではなく、自分の趣味でやっていること。 「申請してないんですか? 成功したらすごいことなのに」 「いいんだよ。これはこれで」  彼は水を撒き続けた。土の上には緑色の葉や蔦が伸びていた。片隅に点々とあるのは花の芽だという。 「育成期間は? これは試験ですか? 本実験ですか? 過去例は……あ、計画書を見せてもらえませんか?」 「はははは。初対面の人間に躊躇しないねぇ」 「すみません! つい!」 「いやいや、かまわんよ。でも計画書なんてないんだ。試験なのか本番なのかも決めてない」 「え?」 「強いて言えば本気の趣味かなぁ」  彼はホースの水を止め、足元にあるビニル袋を持ち上げた。スピーカーから再び「よっこら」と言う声が聞こえた。袋はあと二つある。僕は何となく残りの二つを持ち上げて、彼を真似て運んだ。 「お、すまねぇな。助かるよ」 「いいえ」 「何だこれって顔してるな。これも土だよ」  彼は笑いながら言った。乳白色のビニル袋を開けると、中から黒ずんだ土が出てきた。彼は花が芽吹いている辺りの土を、シャベルで掘り始めた。 「今はナスを育ててる。そっちはキュウリ。トマトは赤くなったら食えるんだが、なかなかどうして熟すまで育ってくれない。実がなったのもやっと3回目だからな」 「どのくらい挑戦しているんですか」 「20回くらいかな」 「20回!」  二の句が継げないでいる僕に、彼はまたからからと笑った。しかも、種や苗も、一年の中で限られた期間にしか植えられないという。つまり20年。彼は実験でも何でもないことに時間を費やしているというのか。 「野菜も花も、スーパーで売ってますよ」 「おう」 「最近じゃコンビニにもあります」 「同じじゃないんだ」  僕は黙って彼の言うことを聞いた。 「ありゃあ、食品工場で遺伝子操作と機械で造られた人工食品だ。栄養バランスは計算され、見た目も美しく、万人にウケる味に仕上げられてる」 「はい」 「でも、これは俺が、人が手で育てた有機栽培だ。工場で自動生産されたものとは違う」  有機栽培。僕は生物学の授業で習った単語を思い出した。その四文字を実際に目の前にする日がくるなんて。その時は、テストに出る単語として暗記したにすぎなかった。 「何故、こんなことをしているんですか」  僕は彼に尋ねた。有機栽培というものは恐ろしく時間と手間がかかる。20年かけて、結実したのは3回しかない代物に手間暇かけることが理解できない。すぐそこの店で買える物に、どうして真剣になれるのだろう。 「有機栽培された野菜の味。お前さんは知らないよなぁ」  僕は頷いた。  彼は土を掘る手を止めて顔を上げた。空を見ているのではない。何か別の記憶を思い出して、恍惚としているようである。 「美味いんだ。絶品だぞ。あれを味わったら人工栽培された野菜なんて食えなくなるほどだ」 「じゃあ何を食べて生きてるんですか」 「あっはははは! 何も食ってねぇわけじゃねぇさ! 言葉の綾ってやつだ!」 「はあ」 「きっかけは、俺のじいさんだった」 「お祖父さんですか」 「俺のじいさんは風変わりな人でな。どこで手に入れたんだか、有機栽培されたトマトとキュウリを持っていた。それを冷凍保存していた」  彼は子供の頃、祖父の気まぐれでそれを一口もらったのだという。祖父は自分の部屋の奥の奥に、いつも何かを隠していた。子供心にそれはすごい宝物に違いないと思っていた。だから祖父が「他の者には内緒だぞ」と言ってそれを取り出した時には、ただの野菜であると思って愕然とした。  だが、切り分けられたそれを口にした途端、今まで経験したことのない衝撃を受けた。 「身体中に電気が走るってのは、ああいう事を言うんだろうな」  スピーカーに男のため息が響く。
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