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「んなもん、どう責任取りゃいいんだよ」
むぅ、と唇を尖らせると、引退後も相変わらずここに通い詰める元教え子は、むくれ顔のままぽすん、とソファの背もたれにふんぞり返った。
「責任、というほど大袈裟なものじゃないけど、君が説得すれば、ひょっとしたら部に戻ってくれるかもしれないと思ってね」
「はぁ? てゆーか、あんなの引き止めたところで意味ないっしょ。デッサンの時も喋るか雑誌読むばっかで……え、何? 女子率下がるとテンション下がるーみたいなやつ? うーわ先生やらしー」
「そういうわけじゃないけど……このまま部員がどんどん減って、万一、部が同好会に格下げされた日には、学校から活動費が下りなくなるだろ。それとも海江田は、後輩たちに画材は全部自費で賄え、とでも言うのか?」
「大丈夫だって。格下げされんのは部員が五人切った時でしょ。まだ、えーと、いち、に、さん……七人いるじゃん、よゆーよゆー」
はぁ、と凪は聞こえよがしの溜息をつく。まるで他人事だ。もっとも、彼の性格を考えるなら仕方のないことだけど。
入学当初から、この海江田一郎という生徒は典型的な無頼派だった。部員時代も進んで誰かと交友を持つことはせず、いつも教室の隅で黙々と絵筆を動かしていた。多分、教室でも同じように過ごしていたのだろう。恋人どころか友人の影すら薄かったから。
にもかかわらず女子生徒から抜群の人気を集めていたのは、ひとえに、その優れた外見のせいだ。
まず骨格が美しい。教科書のような八頭身と西洋人じみた長い手足は、特別なポーズを取らなくとも、そこに立つだけで絵になってしまう。顔立ちも良い。いや、むしろこれは良すぎる。通常、人の顔は思いのほかアンバランスだ。だからこそデッサン時には、うっかり左右対称に描かないよう気を遣う。が、こと海江田をモデルに描くなら、その気遣いは不要かもしれない。綺麗なパーツが完璧なバランスで配置された彼の顔は、美しいを通り越し、いっそ造り物じみている。
そんな海江田の、傍目には見事なビジュアルにつられてか、去年と今年は例年以上に女子生徒の入部が多かった。もちろん、動機はどうあれ最終的には美術の面白さに目覚めてくれればいい。しかし、残念ながら全員がそうはならなかった。そうした生徒は入部後ほどなく幽霊部員と化してしまい、何とか顔を出すだけはしていた部員も、海江田の引退を機にあっさり退部してしまった。
その引き留め工作を当の海江田に相談したはいいのだが、本人はご覧のありさまだ。
「てかさ、だったら今の三年を卒業まで在籍させたらよくね? ラグビー部の奴らなんか、今年の花園まで続けるって言ってたし」
花園とは高校ラグビーの全国大会で、例年通りのスケジュールなら大会は冬に行われる。試験シーズンのまさに直前だ。
「いや、さすがにそれは……」
「いやいや、さすがに部活には来れねーよ? 美大を目指すってんならともかくさ。ほんと、ただの名義貸し」
などと言いながら、彼が手にしているのは受験勉強用のシャーペンや蛍光ペンではなく、デッサン用に芯を長く削り出した4Bの鉛筆だ。さっきまで数学Ⅲの問題集を解いていた彼は、今は勉強の息抜きと称して凪をスケッチしている。海江田は好きに動いてもいいと言うが、七月の引退以来、受験勉強のために根を詰める元教え子が、たまの息抜きに絵筆を執る時ぐらいは協力を惜しみたくない。そんなわけで、凪はかれこれ十分近く同じポーズを取り続けている。事務机の縁にゆるく腰を預け、夏の日差しに焼かれるグラウンドの砂を眺めながら。
やがて気が済んだのだろう、海江田は鉛筆をテーブルにそっと置く。ようやくモデル役から解放された凪は、事務机から離れて軽く伸びをすると、冷蔵庫からアイスコーヒーのボトルを取り出した。普段、この美術準備室で過ごすことの多い凪は、ベッド以外の生活道具をひととおり持ち込んでいる。食器に冷蔵庫、レンジにケトル。おかげで部員には、ここに住んでいるのかと茶化されることもある。が、本人は、家賃天引きでも構わないからここに住まわせてくれと思っている。自宅のボロアパートに比べると空調の効きが段違いなのだ。
「あ、俺も飲みたい」
「ここはカフェじゃない。飲みたければ自分で買ってきなさい」
「ケチ!」
そう言いながらも海江田は素直に財布を取ると、制服の尻ポケットに捻じ込みながら準備室を出ていく。多分、一階の自販機にドリンクを買いに行ったのだろう。
その足音が充分に遠ざかったところで、凪は海江田のスケッチを覗き込む。芯が折れないよう慎重に置かれた鉛筆とは対照的に、無造作にテーブルへと放られたそれは、ちょうどスケッチのページが開かれたままになっていた。
凪が美術教師としてこの学校に赴任して五年。その間、少なくない数の生徒を教えてきたが、中でも海江田は特別だった。この学校は中高一貫の進学校として設立され、カリキュラムも一般大学への進学を想定し編成されている。そうした学校での美術の扱いといえば、高校卒業に必要な単位を授けるためのおまけでしかなく、本気で美術に打ち込む生徒は皆無と言ってもいい。それは美術部員にも言えることで、せいぜいオタク趣味の延長か、運動部に比べて疲れずに済むからという消極的な理由で籍を置くケースがほとんどだ。
ところが、あの海江田という生徒は違った。
入部当初こそ落書きのような画がせいぜいだったものの、凪が教えることを貪欲に吸収し、二年に上がる頃には早くも当時の先輩をデッサン力で圧倒していた。二年次に腕試しのつもりで出品させた高校美(高校生国際美術展)ではまさかの奨励賞を受賞。その後もめきめきと実力をつけ、昨年秋の県美展では他校の美術科生すら押さえて金賞を獲得する。
そして今年の、彼にとっては二度目の高校美。彼は、ついに最高賞である内閣総理大臣賞を獲得する。野球部で言うところの甲子園優勝にも等しい成績は、もちろん創部以来の快挙で、当時は地元の新聞やテレビでもそれなりに大きく報じられた。
天才。
絵を描き始めてわずか二年でこれだけの実力をつけた彼を、誰もがそう誉めそやした。が、よしんば彼が天才だとして、彼が天賦の才だけで筆を執ってきたわけでないことを凪は知っている。
毎日、学校の勉強と並行して最低一枚はデッサンを仕上げ、空いた時間は構図や色の研究に余念がなかった。部を引退した今も、暇を見つけては自主的にデッサンを続けているらしい。
これだけの手間と努力を美術に捧げるには、何であれ強いモチベーションが必要だ。例えば、そう美大受験のような--ところが、本人曰く美大を目指す予定はないらしい。この二年、山のようなスケッチブックをデッサンで埋めておいて。
そのモチベーションは、一体どこから湧いてくるのか。
凪にとって、それは長らくの謎だった。彼の気持ちに気付くまでは。
「……まいったな」
腐っても美術教師だ。そこに〝何〟が描かれているかは画を見ればすぐに読み取れてしまう。描き手の感情も、それに眼差しも。
どうやら海江田は、凪に恋しているらしかった。
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