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 JR山陽本線尾道駅から水道をまたいで向島に渡り、市街地を南に突っ切る。箱庭のような街を抜け、丘陵地へと入るその手前に、凪が美術教師として勤める尾道向島高校はある。  五年前に新設されたこの学校は、設立当初から充実した設備と高い指導力とが話題を呼び、今や県内屈指の進学校として名を馳せている。旧帝大系をはじめとする難関国立大学への進学実績はもちろん、スポーツでも多くの成果を上げ、昨年はラグビー部が創立四年目にして早くも花園進出を果たした。  そんな高校で、凪は開校当初から美術の教員を務めている。  元々、教師になるつもりはなかった。ところが、東京の大学を出て地元でぶらぶらしていたところを高校時代の恩師に見つかり、この仕事を紹介された、というより押しつけられたのだった。それが今から五年前のことで、以来、大きなトラブルに見舞われることなく今に至っている。  そんな凪の一日は至ってシンプルだ。朝、起きて身支度を整えるとすぐにアパートを出て学校に向かう。別に仕事が好きなわけじゃない。冬寒く夏暑い築四十年のボロアパートではとても寛ぐ気になれないのだ。その点、まだ築十年と経たない鉄筋コンクリート製の校舎は空調の効きも良く、寛ぐにはもってこいだ。  そんな不純な動機でも、毎朝一番に出勤していると守衛に顔を覚えられ、入り口で「ご苦労様です」などと声をかけられる。後ろめたい思いを噛み殺しながら昇降口をくぐり、美術準備室に着くと、そこで凪はようやく朝食に手をつける。朝食は、前夜のうちに島内のスーパーで確保した見切り品のサンドイッチ。これにインスタントのホットコーヒーを合わせる。昼もこのパターンだ。弁当は作らない。どうも凪は昔から料理に向いていないらしく、どの料理も最後は必ず真っ黒に焦がしてしまうのだ。  朝食を済ませると、ようやく凪は仕事にとりかかる。  秋に文化祭を行なうこの学校では、夏休みに入る前から準備を始める。校舎のデコレーションは生徒の仕事だが、その段取りを指導、統括するのは凪の役割だ。資材の発注や調達も。高所や配電関連の作業は専門業者に委託するが、その発注も凪が行なう。  それでも、授業のある学期内に比べればまだ時間に余裕がある。美大志望の生徒がいればその指導に追われるのだろうが、生徒のほぼ全員が一般大学に進むこの学校ではその必要もない。同業者の中には、こうした時間を利用して自身の創作活動に充てる人間もいる。教職の傍らアーティストとして活動を続ける美術教師は珍しくない。  絵の描けない凪には、もとより関係のない話だけども。  やがて、校舎が生徒たちのざわめきで満ちはじめる。一般科目の授業は、終業式の後も夏課外というかたちで続いている。一、二年は午前中のみだが、受験を控える三年生は丸一日、学期内とほぼ同じ日程で授業を受ける。  海江田も、今頃は教室で授業を受けているのだろうか。  何となしに教え子の姿を思い浮かべてしまった凪は、軽く眉根を寄せる。何を意識しているんだ。相手は高校生だろうに。  そうでなくとも、教師と生徒が、なんて。  いっそ妄想なら良かった。それでも、凪にはわかってしまうのだ。  画には、対象物への視点も否応なく描き込まれてしまう。凪自身はお世辞にも恵まれた容貌の持ち主とは言えない。素朴というよりは地味な顔立ちと、日頃の不摂生が祟った貧相な身体つき。ところが、あのスケッチに描かれる凪は確かに、美しかったのだ。いや、あれは美しさというよりは……  素っ気ないタッチの端々に垣間見える、凪という肉体への欲望。触れたい。いや、触れるだけでなく全てを暴いてやりたい。無関心を装う冷淡な横顔から、あらゆる表情を引き出してみたい。涙も、それに肉欲も。  小ぶりなくせに扇情的なくちびる。冷たく突き放す、それでいて見る者の視線を釘付けにする眼差し。 「……冗談じゃない」  部屋の片隅で、イーゼルに掛けられたまま放置される白いキャンバス。椅子に腰を下ろし、鉛筆を手に向き合ってみる。……が、変わらない。何も。あの日凍りついた右手は、鉛筆を握りしめたまま微動だにしない。  これは罰だ。かつて禁忌を破った凪に今も科せられる罰。  そうとも。だからこそ、もう二度と--
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