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聞き慣れたチャイムの音が、乖離した意識を現実へと引き戻す。
時計を見ると、そろそろ夏課外を終えた一、二年生が部室に集まる頃合いだ。例年通りなら夏休みは活動を休止する美術部だが、今年は、できるだけ自主的に集まって絵を描こう、という話になっている。大方、海江田の高校美での受賞に刺激されたのだろう。
部活の時はいつも独りでキャンバスに向かい、たまに後輩に話しかけられると、あからさまに嫌そうな顔をした海江田だが、結果的には他のどの先輩よりも後輩たちの良い見本になっている。もっとも、本人にそれを言ったところで「あ、そ」と軽く流されるのがおちだろうけど。
やがて、隣の美術室に人の気配が増えはじめる。気の置けない会話。ガタガタと椅子を動かす音。それらが一頻り続くと、今度はぱたりと静かになる。
準備室には美術室に続くドアがある。そのドアを薄く開いて隣の美術室を覗くと、案の定、すでにデッサンが始まっていた。
机を寄せて作ったスペースの中央にアポロンの石膏像を据え、それを取り囲むようにして部員たちが黙々と鉛筆を動かしている。静まり返った美術室に響くのは、鉛筆の芯が紙を擦る乾いた音と、朝から大合唱を続けるクマゼミの声ばかり。
やがて、部員の一人が凪の姿に気付いて挨拶すると、つられるように他の生徒たちも手を止めて振り返った。
「あ、いや続けて」
生徒たちに再開を促すと、凪は彼らのデッサンを見回りはじめる。基本的に、凪の方からあれこれ口を出すことはしない。生徒の集中を断ちたくないのが一つ。もう一つは、まずは本人の目で課題に気付いてほしいからだ。
逆に、質問や相談があればその都度ていねいに答えてゆく。せっかく課題に辿り着いても、未熟な彼らは解決に必要なひきだしを持たない。教師とは、豊富なひきだしから彼らに必要な答えを提供するためにこそ存在するのだ。
やがて一人の生徒が、おずおずと手を挙げる。
「どうした、三島」
「あ、はい。なんか……描けば描くほど絵が歪んで……アタリの時はそうでもなかったのに」
「なるほど。……ああ、これはアタリの段階で主観に頼りすぎたんだな。人間の脳は、視覚情報をありのまま受け止められるようにはできてないんだ。関心の度合いによって、その像はいくらでも歪んでしまう。面倒かもしれないけど、もっとちゃんと比率を測って」
ようやく納得したのか、質問の主はこく、と大きく頷くと、握り直した鉛筆を前に突き出した。そうして鉛筆をずらしながら、いち、に、と長さを測りはじめる。
「ほんとだ……顔を大きく描きすぎたんだ」
「うん。顔は他のパーツに比べて情報量が多いからね。主観に頼るとどうしても大きく描きがちだ。この段階では書き直しは難しいだろうから、今回はこのまま仕上げて、反省は次に活かそう」
今度は別の生徒に呼び止められる。どうしても画面がのっぺりしてしまうらしい。
「陰影が足りないね。もっとしっかり黒を乗せて。ほら、最初に鉛筆でコントラストを作る練習をしただろう。……覚えてない? じゃあ後で見本のプリントを渡すから、暇な時にでも練習しておくように」
次は一年生の質問。私の絵、どうですか。
「そうだな……君にはまだ、アポロンは難しいかもしれないね。もうしばらくアグリッパで練習しよう。ああ、ほら、あの首だけのトルソだよ。あと、繰り返しで申し訳ないけどアウトラインは描かないこと。デッサンでは、陰影だけでかたちと質感を表現するんだ。OK?」
デッサンが終わると、生徒たちはアポロンを棚に戻し、使い終えた椅子を教室の隅に寄せる。机は、どのみち夏休み中は授業もないから戻す必要がない。
片づけが終わると、希望者は凪に講評を求める。あえて希望制にしているのは、中には凪のアドバイスを欲しがらない生徒もいるからだ。
「武田も何かアドバイス貰ったら?」
部長の川崎が、早くもイーゼルを畳む武田に声をかける。ところが武田は片づけを済ませると、逃げるようにさっさと帰路についてしまう。以前、彼の画に加えた指導がどうもまずかったらしい。類似色だけで手堅く画面をまとめようとする彼に、それでは面白くない、アクセントとしての補色も加えるべきだと指導したところ、僕の画をぶち壊しにする気ですかと臍を曲げられてしまったのだ。
どうせ自分は描けもしないくせに、と。
実際、凪は美術教師のくせに画が描けない。技術的なことはいくらでも教えられる。ただ、実際に描いて見せることだけはどうしてもできない。そのことは、学校にも面接時に包み隠さず伝えたが、履歴書に書かれた出身大学の威光のせいだろう、理事長はその場で凪に採用を言い渡した。
だが、そんな鼻薬が効くのは大人だけだ。
「武田の奴また……あ、先生これ、来月の校外活動の参加者リストです」
「あ……ありがとう」
気を取り直し、差し出されたA4用紙を受け取る。リストには参加者の名前だけでなく、不参加者とその理由までご丁寧に記されている。ただ、前者はともかく後者は、凪の方から聞き出せと指示した覚えはない。おそらく、これは川崎の独断だろう。
「あー……次からは参加者の名前だけでいいよ。もともと自由参加なんだし、問い質すみたいなことはしたくない」
すると川崎は、はーいと気のない返事をする。多分、頭に入っていない。
「いいなぁカナ。夏は家族みんなでディズニーですよディズニー! 私も行ってみたいなぁ東京」
「野暮と承知で突っ込むけど、ディズニーランドがあるのは千葉だよ」
「野暮とわかってるなら突っ込まないでくださいよぉ。いいじゃないですか別に。東京も千葉もそんなに変わりませんよ」
都民の称号を得るためだけに馬鹿高い家賃を月々支払う東京都民が聞いたら目の色を変えて突っ込みを入れそうな台詞だ。が、生まれも育ちも尾道で、進学や就職などの転機がなければ一生この町で過ごすかもしれない彼らにしてみれば、確かに、東京も千葉も遠くて賑やかな町、という点では変わりがない。
「あ、そういえば先生、大学は東京だったんですよね?」
「えっ……う、うん」
慌てて頷きながら、突然の話題に凪は身構える。なぜ知っている。生徒の前では一度も明かしたことがないのに。
「は? 嶋野先生、東大出てんの?」
雑に嘴を突っ込んできたのは、教室の隅で黙々と絵筆を動かしていた宮本だ。秋の文化祭に作品を展示する予定の生徒は、デッサンの後もこうして教室に居残り、暗くなるまで製作に打ち込んでいる。彼女もその一人だが、いかんせんすぐ雑談に混じりたがるので、お世辞にも進捗は芳しくない。
「違うよー。東京にある国立の芸大。なんか、めっちゃ画力高くないと入れないんだって」
「え? じゃ無理じゃない? 先生、画描けないし」
「あ、そういやそうだったね」
そして二人はあははと能天気に笑う。が、凪にしてみれば笑い事ではなかった。別に、画が描けないことを揶揄されるのは今更どうでもいい。問題は--
「その話……誰に聞いた?」
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