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* 夕映 *
ああ、私はこうして、今夜も海に潜る。
この感触を手に入れたくて、まだ彼といる。
あなたが誰なのか知っていた。だから近づいた。
私が何者かは伝えずにはじまった関係。
ただ海のそばで、波の音を、鼓動を聞いていれば、それでよかった。
私たちに必要だったのは、愛ではなかったから。
カッコつけてるみたいな嘘の葉。
耳元でささやく、今日だけのコトノ葉。
*
夕映さんに会いたくて、週末はライブハウスに通っていた。
「夕映え」が似合う彼女。
茜色の空はいつだってあなたの背景に流れていく。たなびく雲も、消えゆく鳥の群れも、全てあなたの許にある。
その声は、その情景を伝えるために存在した。私にとっては奇跡のように。
高揚して薄桃色になった夕映さんの頬に見とれてしまう。
歌い尽くして、まもなく伏せてしまう前のほんの一時に、同じ空間でいられることに私は震える。
夕映さん。そのささやくような甘く掠れた声。
あなたを見つけたのは、バイト帰りに通りかかった隣り駅の歩道橋。
夕闇の中、アコースティックギター片手に歌っている声がふと聴こえてきた。
その音は、私が今まで何となく見ていた景色を、急に意味のあるものに変えていったんだ。一瞬にして。
あの時、もうすでに沢山のファンに囲まれていたね。
前髪が顔にかかって表情がよく見えない。もっと近くに行きたい。
でも、私は遠くから立ち尽くして、ここまで届く声だけを受け取った。
彼女の歌が、何度も何度も繰り返し、胸の中で再生される。
また会いたい。けれど、次の日には彼女の姿はなかった。
毎日通い詰めて、再び逢えた時の想いをどう表現していいかわからない。
ある雨音が痛い夜。
さすがに今夜はいないだろうと思いながら、勝手に足が歩道橋に向かう。
夕映さんは来ていた。ギャラリーは私だけだった。たった一人の聴衆。
透明な合羽を着て、ぽつんと立ってる彼女から聴こえてきたのは、泣き出しそうな歌声。
差し出す傘にそっと入って来て、至近距離で私の耳だけに届いた。
「はじめての二人きり。君との距離はいつか縮まる気がしてた」
私にささやいたのか、歌詞を呟いたのかわからない。
さっきまで泣いていた癖に、可笑しそうな、いたずらな瞳が私だけを映す。
「金曜はここにいるよ。よかったら来て」
渡してくれたのは、ライブハウスのカード。
いつもは遠い目をした彼女の焦点が、私をしっかり捕えた。
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