* 夕映 *

1/4
前へ
/16ページ
次へ

* 夕映 *

     ああ、私はこうして、今夜も海に潜る。  この感触を手に入れたくて、まだ彼といる。  あなたが誰なのか知っていた。だから近づいた。  私が何者かは伝えずにはじまった関係。    ただ海のそばで、波の音を、鼓動を聞いていれば、それでよかった。  私たちに必要だったのは、愛ではなかったから。  カッコつけてるみたいな嘘の葉。  耳元でささやく、今日だけのコトノ葉。 *  夕映(ゆえ)さんに会いたくて、週末はライブハウスに通っていた。 「夕映え」が似合う彼女。  茜色の空はいつだってあなたの背景に流れていく。たなびく雲も、消えゆく鳥の群れも、全てあなたの許にある。  その声は、その情景を伝えるために存在した。私にとっては奇跡のように。  高揚して薄桃色になった夕映さんの頬に見とれてしまう。  歌い尽くして、まもなく伏せてしまう前のほんの一時に、同じ空間でいられることに私は震える。  夕映さん。そのささやくような甘く掠れた声。  あなたを見つけたのは、バイト帰りに通りかかった隣り駅の歩道橋。  夕闇の中、アコースティックギター片手に歌っている声がふと聴こえてきた。  その音は、私が今まで何となく見ていた景色を、急に意味のあるものに変えていったんだ。一瞬にして。  あの時、もうすでに沢山のファンに囲まれていたね。  前髪が顔にかかって表情がよく見えない。もっと近くに行きたい。  でも、私は遠くから立ち尽くして、ここまで届く声だけを受け取った。  彼女の歌が、何度も何度も繰り返し、胸の中で再生される。  また会いたい。けれど、次の日には彼女の姿はなかった。  毎日通い詰めて、再び逢えた時の想いをどう表現していいかわからない。  ある雨音が痛い夜。  さすがに今夜はいないだろうと思いながら、勝手に足が歩道橋に向かう。  夕映さんは来ていた。ギャラリーは私だけだった。たった一人の聴衆。  透明な合羽を着て、ぽつんと立ってる彼女から聴こえてきたのは、泣き出しそうな歌声。  差し出す傘にそっと入って来て、至近距離で私の耳だけに届いた。 「はじめての二人きり。君との距離はいつか縮まる気がしてた」  私にささやいたのか、歌詞を呟いたのかわからない。  さっきまで泣いていた癖に、可笑しそうな、いたずらな瞳が私だけを映す。 「金曜はここにいるよ。よかったら来て」  渡してくれたのは、ライブハウスのカード。  いつもは遠い目をした彼女の焦点が、私をしっかり捕えた。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加