珍事

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 たぶん村越さんは硬直状態から一変、鞄を抱きしめるように持ち直し近づいてきた。目が怖い。いや、存在が怖い。殺人鬼が近づいてきているかのような感覚ってこんな感じなのかなと思う。  だから僕は逃げた。  決して足は速くない。むしろ遅い方だ。それでも逃げるほかに僕は選択肢はなかった。振り返ればたぶん村越さんが追いかけてきている。  子供の頃、犬に追いかけられた記憶がよみがえる。あの時は犬のリードを離した飼い主に対して「ふざけるな」と思ったが、たぶん村越さんに逆に思われているのかもしれない。目ん玉くり抜かれてぇのか、と。そりゃ逃げるでしょ勘弁してくれ。  たぶん村越さんからの逃走劇は意外にも長期戦となった。あまり長距離走が得意ではないのか、はたまた初手でスタートダッシュを僕に決められてしまったからなのか。決して追いつかれることなく僕は自宅に逃げ込むことに成功した。  咳き込みつつも前髪をかきあげて天を仰いだ。こんなに息が整わないほど全力で走ったのは久しぶりだ。胸が痛い。どっどっと心臓が暴れているのがわかった。 「あら珍しい」  母親が玄関にいた。何に対して珍しいと言ったのかわからないし、聞き返すつもりもないが珍しいというのはこっちのセリフでもあった。僕が帰ると母はいつもテレビを見ながらせんべいを食べているというのに。母親の右手にはエコバッグと財布と携帯が握られていた。 「やだ、靴下脱いでから入ってよ」  濡れた靴下を玄関で脱ぎ、洗面所のカゴに放り投げた。後ろから「じゃあ行ってくるから!」と大きな声が聞こえる。返事を返さずにワイシャツとズボン、パンツも脱ぐと解放感が心地よかった。そのまま部屋に戻ろうとしてぎょっとした。 「……っいやあああぁぁぁぁぁぁぁぁあああああ!!」  悲鳴と同時に何かが僕の顔面に直撃した。硬い物が鼻に当たる。そしてまた何かが飛んできて、僕は射的の景品みたいにひっくり返った。歓喜とは程遠い、針金のような叫び声が気を失うことを許してはくれなかった。
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