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「すまない。それは出来ないんだ。やることがあるから」
「何をなさるおつもりですか?」
彼は目当ての階段が見えてから口を開いた。
「珠緒──俺の手は汚れている。君に触れるべきではなかったのに、踏み越えてしまった。だから罪滅ぼしをさせて欲しい」
涙が溢れて仕方なかった。
薄々は、気付いていたのだ。
彼が幸多い人生を送っていたのであれば、桐羽侯爵きりうこうしゃくとして生きているわけがないのだと。
そして、その業を背負わせたのが、森崎家だなんて。
「必ず君の元へ戻る。だから今は、家へ帰れ」
そう言って、彼は壁際に設置された扉付きの鉄の小箱にぐっと手を差し込んだ。
途端──、けたたましいベルの音が鳴り響く。
思わず耳を塞ぐと、泡を食った半裸の宿泊客が次々と廊下へ出て、こちらへ殺到した。
「──!!」
体を押され、流れに飲まれた。彼と引き離されてしまう。
思わず手を伸ばしたが彼は振り向かず、壁際に背中を寄せ来た道を戻ってゆく。
ベルと怒号と悲鳴が満ちて、声が届かない。
名前を知らないから、呼べない。
珠緒は階上へ押し上げられながら、ただ泣くことしか出来なかった。
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