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暫く顔を見せなかった悪魔の少年が少女の家に訪れたのは、病院の出来事から半月が過ぎた頃。
昼、リビングで父親に教えてもらった宿題が床に投げ出された、少女の寝室――満月が眩い夜に、少女の意識は気づけば家の屋根の上にあった。
どうやって自分が自分の部屋からこんなところに登ったのか。思い出せないまま、裸足で自分はパジャマを着たままそこに立っている。
どうやって、なにを思って登ったのかはわからない――が。ここから落ちても、遅かれ早かれ自分は死ぬのだから、同じだろうか。
そんな考えが頭を過ったとき。少女は隣に気配を感じて、ふと振り向く。そこには、あれから何の音沙汰もなく、姿を見せなかった悪魔の少年が、前を向いたまま立っている。
状況がよくわからない少女の腰に、少年の腕が絡められた。少女が驚く間もなく、少年は彼女を抱き上げ悪魔の羽を広げ、深い夜の空へ舞った。
「怖いかもしれないが、安心していい。ここは、お前の夢の中だ」
「夢……!?」
「そうだ。少し精気を吸うが、身体は順調なのだろう?
念のため、見せる時間は短いが――」
少年は腕の中の少女を見下ろして、月のように淡く、優しく笑った。
「少し遅い、退院祝いだ」
端正な少年の顔に、少女はどきりとして顔を赤らめる。
今まで彼女に見せた彼の表情の中で一番優しく、美しいと思ってしまったのは、夢の中だからなのだろうか。
「お前も飛ぶか?」
「え――」
「ほら」
まるで父親が高い高いをするように、空の上で少年は少女を持ち上げる。空から落ちやしないかとハラハラしたが、背中を見るように言われて言うとおりに振り返る――そこには、大きく、美しい天使の羽が少女の背中を飾っていた。
月光に反射し、キラキラと純白に輝いていた。
「行こう」
いつの間にか自分を支える手は放され、少女は自分の力で飛んでいた。
差し出された悪魔の少年な手を取り、少女は街を一望できる場所を目指した。
自由を堪能して家の屋根の上に戻ってきた二人は、大きく誇大された夢の中の満月を並んで見上げる。
現実にはあり得ないが、きっと自分はこの出来事を、この月を忘れないだろう。
まるで夢のような、夢。現実には戻りたくないと、泣き出したくなるくらいに――。
「……なあ」
「……ん――」
「まだ、子供がほしいか?」
聞かれて、少女は少年を見る。
穏やかそうだが、瞳の奥にある光は真剣さが宿っていた。
「……今更、なんでそんなことを聞くの。嫌って言ったくせに」
「あれから、お前の親に話した」
「……――話した……?」
「勿論、本当のことは話していない。俺の正体も、夢の中で子を生ませることも。どうせ信じてもらえないだろうからな。
だから、娘のお前が望んでいることを、命に関わるかもしれないことでも果たすべきかどうか――とな。お前が望むこととはいえ、俺一人で決めるわけにはいかない」
「……それで。パパとママ、は……なんて?」
「即却下された。まあ、当たり前だな」
だが、と少年は続ける。
「退院してから、まるで死んでいるように生きていると。お前の両親は心配していた。
どうせ大人になれないならどう生きたって関係ないというように無気力で、お前を見ているだけでつらいそうだ」
「……」
「だから、娘がどうしても望んでいることならしてやってほしいと、一週間前改めて、お前の親から頼まれた」
固く厳しい少女の親が、まさかそんなことを言っていたとは想像すらできないことだ。意外な気持ちで、少女は語る少年の顔に見入っていた。
そんな彼女に、少年は再び問いかける。
「改めて、お前はどうしたい?」
と。
「……私、は」
「お前は、なんのために現実にいたいのだ? どういう自分でありたい」
「どういう……?」
「繋がりたい、大人になりたい、子供がほしい。確かに、それも幸せの一つだ。違いない。
新しい幸せを貪欲に求め、生きている間にすべてとはいえなくとも、なるべく多くのものを手に入れたいと願うのもいいだろう。だが――今、新しい幸せを求めなければならないほど、お前は不幸なのか?
お前が貪欲にならなければならないのは。今、大切にすべきものに対してではないのか?」
そして肥大した非現実的な月に、シアターのように映る二つの顔。
少女の両親が、いつも優しい母が、いつもふざけてくだらない冗談を言う父が、泣いていた。
「これが。余命短いお前の望む、幸せなのか――?」
少女が夢から覚めると、悪魔の少年が少女の傍らに立って自分を見下ろしている。
少女はゆっくり身体を起こすと、少年を見上げていた瞳を伏せて考えるような顔つきになり――やがて、寝る前に床に放り捨てた宿題に目を留める。
「……勉強なんかしたって、もう無駄だって、意味ないって思ってた」
悪魔の少年も、少年の目をたどって乱雑に転がっている勉強道具を見下ろす。
「でも……パパは、そうじゃないの。諦めないで、私がわかるまで、教えてくれるの。できたら、褒めてくれるの。
もう私、いつ、いなくなったって、おかしくないのに……」
少女の語尾が涙で滲み、震えた。
「ママも、一緒にお菓子作ろうって。失敗したら、次は、上手くいくって、言うの――次なんて、ないかもしれないのに」
「……お前の母親の『次』よりも、愛していない男との子供が大切か?」
「……ううん」
少女は首を横に振ってから床に膝をつき、そばかすを涙で濡らしながら、勉強道具を拾い上げては強く抱き締めた。
「それでいい。死ぬまでに果たしたいお前の本当の『欲望』は、そこにある」
少女は悪魔の少年を見上げ、涙を拭って頷いた。
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