僕の六月は水に溶ける

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 曇天で薄暗い学校の廊下。誰もいない昇降口。掲示板に貼られた七月の月間目標。自販機のそばの長椅子には、僕ともう一人女子が並んで座っていた。 「そしたら、そこに何があったと思う?」  彼女はそう言った。僕は返事をしなかったが、彼女は続ける。 「そう、そこにあったのは……」  押し殺すように溜めを作って、彼女はキメ顔でこう言った。 「……赤い洗面器だったのよ」  沈黙。僕と彼女はしばし見つめ合っていたが、何だか何か言わなきゃいけない気がしてとりあえず返事する。 「……うん」 「は?」  彼女は少し不機嫌そうになる。 「そんだけ?他に何かないの?怖かったとか、面白かったとか」 「いや……その、何の話だかさっぱりで」  隣に座る彼女が身を乗り出して僕に迫る。 「え!なんで?私が寝ずに考えた渾身の創作怪談『赤い洗面器の女』、面白かったでしょ!?最初はノリノリで聞いてたじゃん!」  何がなんだか分からない僕にまくし立てる。なんと応えたものか悩むうちに、彼女はふと僕の後ろの何かに視線を合わせる。 「あ」  そう声を上げると彼女は立ち上がり、廊下の窓の下まで歩んで行き外を見上げてつぶやく。 「あっちゃー……降ってきちゃったかー……」  窓の外では強い雨が降っていた。夕立だ。いつから降っているかは覚えていないのだけど外の地面の濡れ具合からしてさっき降り始めたばかりのようだ。 「それで、私の話どこから聞いてた?」 「えっと……『そしたら、そこに何があったと思う?』ってとこから」  彼女は頭を抱えて露骨に残念そうな表情を作る。 「そこかよ…。よりにもよってオチの部分だけ聞いちゃったのかよ…。せっかく調子よく語れてたと思ったのに……」 「そんなに語りたいならもう一回話したら?僕、何の話だか全然分かってないし」 「却下。オチだけ知られてる怪談を話すなんて私の美学に反する」  彼女はきっぱりと断った。何やらこだわりがあるらしい。  彼女が僕に向き直る。 「で、」  雨雲のヴェールを(とお)した光が彼女を照らして薄暗い廊下から彼女を浮かび上がらせる。 「私が誰だか分かる?」  僕は少し考えた。彼女は僕の記憶に無い人物だった。首を横に振る。 「それじゃ、自分が誰だか分かる?」  僕は少し考えた。 「え?」  分からない。僕は自分の記憶が無かった。自分がどんな人間で、今まで何をしてきたのか、今なぜここにいるのか、家族や友人を含めてどんな人々と付き合ってきたのか、自分に関することを何一つとして思い出せなかった。 「ちょっ……待って……あれ?」  何も無いという情報の真空は、深海の水圧よりも容易く僕の心を押し潰す。心が不安で溢れて泣きそうになる。  ふいに、優しい感触があった。  彼女が僕の隣に屈み込んで、背中をさすってくれていた。 「ごめん、ちょっと急だった」  申し訳無さそうに彼女は言った。  彼女が触れている所から何かが流れ込み僕の真空をほんの少しだけ満たして、それだけ不安が和らいだ気がした。 「君は…僕が誰だか知ってるの……?」 「うん、知ってるよ。あなたは星雨(せいう)」  多分僕の名前なのだろうが、それを言われても自分の名前だという実感は無かった。 「君は、誰?」 「私は水月(みつき)。昔からずっと一緒にいる」  水月。それが彼女の名前だと分かっても何の感慨も湧かなかった。 「どうして…」  無意識のうちに言葉が出ていた。 「どうして、何も覚えていないんだろう…」  誰に向けたわけでもない、自分でも出処の分からない言葉だった。  そんな言葉にも彼女は応えてくれた。ただし、彼女の返事もどこに向けた言葉なのか僕には分かりかねた。 「それは雨が降ったからだよ」  言葉はそれ以上でも以下でもなかった。水月はその言葉で何かを伝えようとはしていない。 「とりあえず、教室戻ろっか。鞄置きっぱだし」  水月に促されるまま、僕は階段を上がる。
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