枯れ井戸の星

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「トーアはすごいな。そのベルトと腰袋、自分で造ったんだろ」 「職人は、自分の道具を造るところが出発点だって、父さんが」 「だからって、そんなうまくはいかないよ。やっぱり、一流の血筋は違うなあ」  これ見よがしに通り過ぎる子どもたち。と言っても、僕だって年の頃は変わらない。ただ違うのは、彼らの肩や腰には、仕事道具を持ち運ぶための革ベルトが巻かれていること。年がら年中、じめじめしているこの島では、さぞかし暑いことだろう。幸い、僕の仕事に道具はいらない。頭からかぶったチュニックには、ポケットが一つ。これで十分だ。 「親父さんのところには、先週も隣の島から職人が教わりに来たんだろ。かっこいいよな」 「俺もいつかは、島を股に掛ける具足師になるんだ」トーアの声が高くなるが、僕に聞かせようとしているわけじゃない。お目当てはニギだ。 「気にすることないよ、レン。枯れ井戸守りも立派な仕事だって、わたしは知ってる」ニギは、トーアたちが僕に嫌味を聞かせようとしていると思ったらしい。それはそれでいい気味だ。トーアの気持ちは、ニギには届かない。  彼女は、島でも数少ない死出謡いだ。桜色に染められたカフタンには花びらをかたどった刺繍が施されている。ニギが自分で縫ったものだ。死出謡いには、いつでも死者が寄り集まってくるという。だから、その身を守るために、命あるものを刺繍で縫いこむのだ。年かさの死出謡いは、鳥や魚や獣を描くが、ニギにはまだその技術がなかった。それでも、細かな花びらが散り敷かれたカフタンは、ニギの優しい声と舞いにぴったりだ。 「レンの仕事に文句があるっていうの」  そして、その声はよく通る。声量があるわけではないのに、人波を抜けるつむじ風のように、ふわっとみんなを包み込む。だから、誰もその声に言い返せなくなる。  トーアを除いては。 「うるさいな! 枯れた井戸なんか守って、何の役に立つんだよ」 「守り続けることに意味があるの」 「ニギは関係ないだろ。俺はレンに話があるんだよ」 「私はこの井戸が好きなの。レンが守ってくれてるから、安心して井戸のそばにいられるんだよ」  トーアの眼が丸くなる。僕だってびっくりだ。「守ってくれてる」だって? 井戸のこと? それとも……。胸がきりきりと締めあげられているような気分だ。とても確かめられない。 「うるさいな。いいから、レンに答えさせろよ!」 「じいちゃんが言ってた。井戸をほったらかしにすると、何か出てくるんだって」  僕は仕方なく答えた。この話は、正直、あまりしたくない。ニギが怖がって来なくなったらどうしてくれるんだ。 「何かって、何だよ」 「怪物」  トーアの取り巻きたちが、一瞬、静まり返る。そして、一気に広がる強がりの罵声。ただ、どんなに笑い飛ばしても、声が震えていては効果半減だ。 「だったら、何で埋めないんだよ。そんな危険な井戸」 「怪物が出てきたら、すぐに知らせろ、ってじいちゃんが。きっと、怪物が何かの鍵なんじゃないかな」 「怪物が鍵って、どういうことだよ……」トーアの喉が上下した。僕だって、平気でここに座ってるわけじゃない。首筋を伝う汗は冷たい。 「レンのじいちゃんって、ケンゴウなんだろ」「大陸でたくさん人を斬ってきたって聞いた」「センソウだろ。大人が集まって殺し合うんだ」「レンの父ちゃんもセンソウに行ったんだろ」「違うよ。レンの父ちゃんは、逃げたんだよ」取り巻きが騒ぐ。その話は聞き飽きた。大人たちも噂してるのを知ってる。こうなっては、話は続けられない。手を振って追い払おうとすると、意外にもトーアが睨みつけて黙らせた。 「もし、その怪物とやらが危険だっていうなら、爺さんはレンに剣を教えるはずだ」トーアは、自分で造った腰袋をひと撫ですると、大股に井戸に歩み寄った。「何が怪物だよ。子どもだと思って」  言うが早いか、レンは井戸の縁を掴んで、その中に思いきり頭を突っ込んだ。止める隙もなかった。むかつくけど、勇敢な奴だ。 「何も見えないな。底が深いのか」 「何かが見たいっていうなら、夜に来るといい。怖くないならね」  気が付くとそう口走っていた。井戸を覗いた子どもは、トーアが初めてだった。 「今夜はお祭りじゃないか」取り巻きが言う。来たくないらしい。 「俺一人で来る。お前らはお祭りに行けよ」 「私も来たい」ニギが飛び跳ねる。 「〈四霊祭〉だろ。死出謡いは忙しいじゃないか」 「〈四霊祭〉は四神のお祭り。私の謡いは地祇(ちぎ)様のだから、今日は暇なんだ」  井戸から顔を上げたトーアが僕のことを正面から見据えた。なぜか笑顔だった。僕も、笑っていたのかもしれない。太陽が傾き始め、広場から聞こえる太鼓の音が、ぽっかりと空いた胸の洞穴の中で何度も何度も反響していた。  毎月、満月の夜になると、島を包む海のあちらこちらから色々な神様が集まってくる。だから、()み炊きは大鍋にいっぱいの生け煮えを用意する。日が落ちる頃になると、海から吹き上げる風に乗って、この島で一番の高台にあるこの井戸にまで旨そうな匂いが漂ってくる。僕はその匂いをあてに、甘木の根っこをしゃぶる。  やがて、空に紺青の天蓋が広がった。無数に空いた細かな穴が白く輝いている中に、月がひときわ大きな穴を穿っている。ニギとトーアの話し声が聞こえてきた。根っこを藪に投げ捨てる。 「来たぞ」昼間よりも野太い声を出すトーア。 「こっちだ」つられて僕も太い声になる。ニギが笑っている。  井戸を三人で囲み、月明りで二人の表情を確かめる。ニギは終始楽しそうだが、トーアは頬が引きつっている。緊張の理由がもしニギだっていうなら、僕も同じ顔をしているかもしれない。 「内緒なんだけど、実は、枯れ井戸じゃないんだ」 「どういうこと?」 「覗けば分かる」  井戸の縁から頭を突き出し、底を見る。冷たい空気が空へと吹き上がり、ニギの長い髪がふわりと広がって頬をかすめた。二人が息を呑むのが聞こえた。 「星……なの?」 「そう。映ってる」 「水が張ってるってこと?」 「多分」  トーアの手が後ろに回り、次の瞬間、拳が井戸の上に突き出された。そのまま指を開くと、銀色に輝く何かが井戸の底へと吸い込まれていった。 「なにしてるんだよ!」 「鋲を落としたんだ」トーアが何食わぬ顔で答える。「水の音は聞こえないね」 「ばか!」きっとまずいことが。じいちゃんに言うべきか。頭が痛い。勇敢なのは買うが、考えなしなのは困る。どうしよう。  その時だった。突然、ニギが僕らの肩を叩き、軽やかに一回転した。   井筒は地を()き天に至る   (みじ)く星は流らう御霊(みたま)   (まろ)き四海は筒井に(かえ)り   鏡は覆いて人を払う  玻璃が鳴るような澄んだ歌声。月夜の丘に凝っていた湿った夜気は、たちまちのうちに冴え冴えとした空気に入れ替わった。 「〈島造りの謡い〉だよ」 「初めて聞いた」 「〈島造り〉は、七年に一度しかお祭りがないからね。私もまだ、祭りでは謡ったことない」 「どういう意味なの」 「井戸が天と地を貫いていて、星は死者の霊で、あとは、海が井戸に繋がっていて、井戸に蓋をして人が入らないようにする……みたいなことかな」 「それって、おかしくない?」 「何が」 「僕は、井戸の中から出てくる怪物を見張れって言われてる。でも、今の話じゃ、井戸に人が入らないようにしろ、って。これじゃあ、反対だよ」 「ほんとだ。変なの」  謡いは、神代の言葉だ。長い年月を経て、もともとあった意味が変わってしまったのかもしれない。あるいは、謡いの言葉そのものが。 「二人とも、ちょっと来てくれ」トーアが懲りずに井戸を覗き込んでいる。何としても、枯れていることを証明したいのだろう。井戸の中と空を交互に指差す。「月が」  言われるがままに天を仰ぐと、満月は天頂に掛かっていた。祭りも佳境だ。ニギはもうすぐ帰ってしまう。  そんな物思いを無視して、トーアが僕の腕を掴んで、井戸の縁に引き寄せた。「中を見て」  井戸は、まっすぐ天を突くように造られている。だから、今は月がその水面に映っているはずだった。なのに、 「月がない」 「だが、よく見てくれ」トーアが井戸から身を乗り出す。「星は見えるんだ。どういうことだと思う?」  ニギも僕の横から井戸の中を覗き「ほんとだ」と溜め息を吐いた。 「鏡は覆いて人を払う――だっけ? だったら、少なくとも俺たちは、追い払われてはいないわけだ」言いながら、トーアが腰袋から何か取り出す。そして、僕が止める間もなく、再び何かを井戸に投げ入れた。ただ、今度は、トーアの手の中にも何かが残っている。 「縄梯子だ!」ニギが声を弾ませる。 「見に行こう」素早く地面に杭を打つトーア。引っ張って強度を確かめている。  無茶だ、という言葉は、ニギの嬉しそうな声に、ぐっと飲み込んだ。祭りの後、大人たちはしこたま酒を飲む。そして、明日は半日、使い物にならない。だったら、僕たち子どもがちょっとばかり自由を謳歌したところで、誰も気づきもしない。 「僕が最初に行く」井戸の外に縄梯子を留めるトーアに向かって宣言する。「危険と判断したら、そこでおしまい。引き返す。それでいいなら、枯れ井戸守りとして二人を中に案内する」  頭の中にいるじいちゃんが、抜身の剣を手に睨みつけてくる。月明りに輝く刀身は、血に飢えた悪霊みたいに青白く、ゆらゆらと揺れるじいちゃんの体は、今にも躍りかかってきそうに見える。 「行かないの?」  怪訝そうなニギの声。無言でうなずいて、縄梯子に足を掛けた。ふと見上げた空の月は、うっすらと雲がかかって、朧に光っていた。  どのくらいの間、下り続けていただろうか。月は天頂を遥かに外れ、星は現れたり消えたりを繰り返し、夜は深まっていく。ニギのカフタンが吹き上げる風に揺らいで、僕は何度も視線を逸らした。石壁は下るほどに冷たくなっていき、苔でも生えているのか、手と足の先にぬめぬめとした感触が伝わる。  突然、壁が消えた。縄梯子が揺れ、態勢が崩れる。ここまで、下を見るまいとしていたが、そういうわけにもいかない。祈るような気持ちで頭を下に向け、右目をうっすらと開く。その時、目に飛び込んできた光景に、嘆声が漏れた。  それは、星屑の草原とでも言いたくなる風景だった。丈の高い草が風に揺れ、草の間を星としか思えない小さな光の粒子が舞い踊っている。 「光、かわいいね」不格好に草原に飛び降りた僕の横で、ニギが軽やかに着地した。光が飛び交うその間を、くるくると回りだすニギ。光の方も、ニギの周りに寄り集まり、粉雪のように舞い踊る。花びらの刺繍が光と溶け合い、虹色の尾を引いて輝く様子はまるで天女だ。「でも、この光、なんだか見たことある気がする」  彼女の言葉に、改めて周囲を見回した。井戸の底とは思えない。どの方角を見ても上り坂で、遠くに行くほど急になり、遥か先の方では壁となってそそり立っているようにしか見えない。すり鉢の底にいるみたいだ。真上を見ると、巨大な筒から縄梯子が垂れ下がっている。あれが、僕の守っていた井戸か。まるで別物だ。 「要するに、星空が反射していたわけじゃなくて、この得体の知れない光が見えてただけってことか」トーアが光を払いのけながら言う。「なんで、こいつら、俺のベルトに寄ってくるんだ」 「いい匂いがするんじゃない」ニギがトーアの腰のベルトを撫でた。集まった光たちが散らばり、ニギの腕の上で瞬いた。「仲良くしなよ」 「何か、おかしいぞ。こいつら」  不意に、焦げ臭いにおいが立ち込めた。「トーア、ベルトが燃えてる」 「なんで」本当に、なんで。僕もニギも、何ともない。どうしてトーアだけが。 「ベルトを外せ、トーア。そのベルトに集まってるみたいだ」 「ばかなことを言うな。職人が道具を捨てて、どうして生きていける」 「そんなこと言ってる場合じゃない。燃えてるんだよ」 「お前は、職人じゃないから、そんなことが軽々しく言えるんだ」 「分かった」突然、ニギが甲高い声で叫んだ。「この子たち、霊魂だよ」  言い終わるが早いか、トーアはたかってくる光を振りほどこうとして走り出した。しかし、動くトーアはなおさら目立つ。見る間に光に包まれていく。ニギが駆け出そうとするのを、僕は腕を掴んで引き留めた。 「どうして」 「もう無理だ」  光はトーアの全身をくまなく覆い、それに呼応して、更に光たちが群がった。燃え盛る火柱と化したトーアは草を焼き払い、大地を赤々と照らし出す。 「ひどい……」僕とニギは言葉を失った。  大地は真っ赤に焼けただれ、次第に色を失っていった。いや、そうじゃない。見ていると、赤熱した土はうっすらと透き通り、その向こうに無数の気泡が白く広がっている。  星だ。星々が散り敷かれているのだ。その更に向こうには、星々のように点在する島が見える。この光景は何なんだ。  目を凝らすと丘が見えた。その真ん中に井戸が見えた。その傍には、剣を手にした老人が見えた。灰色の瞳がはっきり見えた。僕を見据えている。厳しい眼差しだ。 「じいちゃん……」 「私たち、空にいる」ニギのカフタンがふわりと広がる。「体が軽い」  言われて気が付いた。地面を軽く蹴るだけで、大きく跳躍できる。しかし、それは燃え盛るトーアも同じだった。透ける大地を踏みしめたかと思うと、光の帯を後ろに引いて、僕たちの所まで滑るように飛んでくる。ニギの腕を引張って背後に。でも、トーアを止める方法がない。何もない。チュニックのポケットには、暇つぶしのための甘木の根っこ。僕は何も持っていない。 「――危険だっていうなら、爺さんはレンに剣を教えるはずだ」  トーアの声が蘇る。僕はどうして、剣を教わらなかったんだろう。  熱い。炎の舌がチュニックを撫で上げ、裾から肩にかけて、一瞬で灰になった。破れたポケットから木の根が転げ落ち、トーアの足元で燃えて消えた。だめだ。眼下では、じいちゃんが剣を掲げてこちらを見ているが、僕には到底届かない。トーアの体が頭上でドーム状に広がり、僕たち二人を覆った。  焼かれる――  しかし、炎は降り注いでは来なかった。僕のチュニックのように、その体に黒い筋が入ったかと思うと、真っ二つに裂けたのだ。切り裂かれた二つのトーアは半透明の大地に降り注ぎ、雨上がりの水たまりみたいに延び広がった。わずかに残っていた草が煙を上げ、大地が不透明の姿に戻っていく。 「声が聞こえる。レンを呼んでる」ニギが僕の腕を掴み、もう片方の手は、トーアの体があった場所に向かって伸びている。その指先には力が張り詰めていて、彼女の体を通して、そこにいる何かの声が響いてくるのを感じる。意味は分からないが、謡いの旋律に似た何かが、そこにいる者の想いを流し込んでくる。  見ると、ニギの指の先でそれが朧に光っている。もしそれが、人の形なのだとしたら、手のある場所には、見知った意匠のある剣が握られているはずだ。 「父ちゃん」  きっと、そうだろう。じいちゃんが僕にどうして井戸を守らせてきたのか、どうして蓋をしなかったのか、今はっきりと分かった。  その魂は、ゆらりと腕らしきものを持ち上げると、空から垂れた縄梯子の方角を指した。僕は力強くうなずくと、涙を浮かべるニギの背中を押して、梯子に手と足を掛けさせた。  帰りも、僕は下を見なかった。今度は怖かったからじゃない。父ちゃんが、背中を押してくれていたからだ。上を見て、ニギのことを支えろと教えていたからだ。  井戸を出ると、じいちゃんが立っていた。酒臭かったが、顔は青ざめていた。僕らも同じ顔色をしていただろう。 「お前は生きて還ってきた。わしと同じだ。しかし、あいつは違った」 「でも、下で会ったよ。助けてもらった」ニギはまだ泣いていた。何から助けてもらったかは言えなかった。じいちゃんは、縄梯子を見て悟ったようだった。 「命を奪って造った物は、狭間の世界には持ち込めない。言っておくべきだった。彼の父には、わしから説明をする。お前たちは、ゆっくり休みなさい」  ニギはその場で倒れ込むと、そのまま寝息を立て始めた。背中を井戸にもたせ掛け、僕もそのまま隣に腰を下ろした。空を見上げると、無数の星々の向こうで、父ちゃんも同じように眠ろうとしていた。 「じいちゃん。僕も、剣を持ちたい」  何のため? トーアの無念を感じたからか、父ちゃんの想いを受け止めたからか。もしかすると、寝息を立てながらもまだ震えが止まらないニギのためかも知れなかった。
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