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ふわふわと、ほろほろと、歌が聞こえる。懐かしい童謡。
北原白秋の「赤い鳥小鳥」だ。
赤い鳥、小鳥。
なぜなぜ赤い。
赤い実をたべた。
幼い頃を思い出して、心が綻んでしまう。
童謡を口ずさむのは、彼だ。
幸せだった頃の記憶。幸せだったあの頃に戻りたい。
「……あぐちゃん?」
ゆすらは、重いまぶたを開けた。
ここがどこなのか、わからない。自宅アパートでないと気づき、重い体を起こした。
ふなつメンタルクリニックの待合室のソファーだ。
「おはよう、ゆっちゃん」
「あぐちゃん……!」
重い。頭も、体も、心も。
「大丈夫。深呼吸して」
ぐらついた体を、彼が支えてくれる。
「ごめんなさい。倒れちゃったみたいで」
「いいんだ。あえて起こさなかった」
「……あぐちゃん、だよね?」
「いかにも。実家が近所だった、船津阿久利だよ」
ゆすらは、俯いて小さく息を吐いた。
船津阿久利。あぐちゃん。7歳離れた、近所のお兄さん。もう32歳になるだろう。昔から王子様みたいに格好良かったが、大人になって一層磨きがかかった。
「お医者様になったんだね。開業されるなんて、すごい」
「すごくない。借金だらけだ」
飾らないところは、昔と変わらない。
「よく寝ていたよ。可愛かった」
「寝てた? 私が」
「真面目なんだね、ゆっちゃんは。真面目だから、疲れが取れないくらい悩んでしまう」
彼はソファーに腰を下ろし、ゆすらの肩を抱く。
一瞬、ゆすらは胸が高鳴った気がした。テレビドラマのラブシーンみたいだと思ってしまった。
でも、彼にとっての自分は、ただの近所の子。良く言っても、妹みたいな子。何とも思っていないから、きっと平気でこんなことができるんだ。
「ゆっちゃん、看護師さんになったんだね」
「……うん。でも、正看護師のくせに何もできないって、言われる」
「ゆっちゃんにそんなことを言う人は、俺が排除してやる」
「やめて、そんなこと」
「冗談だよ」
彼は陽気に笑い飛ばす。常夜灯だけが点いた待合室に、明るい笑い声が弾んだ。
「でも、俺は許さない。眠れなくほどゆっちゃんを苦しめる人を」
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