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赤い実の幸せなまどろみ
夢のようだった。
王子様みたいなお兄さんがすっかり大人になって、白衣が似合うお医者様になった。
そのようなこと、とても恥ずかしくて本人には言えないけれど。
泥にまみれたように不明瞭な頭でも、彼は昔と変わらず華やかに思えた。
「荻野ゆすらさん。ご職業は、看護師。もう25歳か」
問診票を確認され、ゆすらは頷いた。
「初診のかたには必ず自己紹介しているんです。『ふなつメンタルクリニック』の船津阿久利といいます。改めて、よろしくお願いします」
耳に心地良い、よく通る声。ミュージカル俳優みたい。書斎みたいな雰囲気の診察室はとても静かで、ふたりだけの空間だと、ゆすらは錯覚してしまう。
こんなにゆったりした場所ならよく眠れるかもしれないのに。そんな無いものねだりをしてしまう。
「えっと……症状は、不眠、倦怠感、些細なことでびくびくしてしまう、すぐに頭の中がパニックになってしまう……」
みみずがのたくったような筆蹟を、良い声で読み上げられる。大変でしたね、とか、つらかったですね、とは言われない。変に同情されないことが、ゆすらには、ありがたかった。
「症状が現れたのは、半年前?」
「はい。梅雨入りした頃に、些細なことでびくびくして、頭の中がパニックになってしまい、そのうち眠れなくなって、いつも体がだるくて……休職したいと思っているんですけど、2、3年目のぺーぺーが休職するのは無責任な気がして……なんか、皆に申し訳なくて……」
話し始めたばかりなのに、涙が出てしまう。息ができなくなって、頭に酸素がまわらなくなってしまう。彼の顔を見ることができず、俯いてしまう。
「ごめんなさい……こんな弱い人になってしまって」
膝の上でこぶしを握りしめ、ごめんなさい、ごめんなさい、とあやまることしかできない。
握りしめた手に、涙が落ちる。その手を、大きな手に、そっと重ねられた。
王子様みたいに華やかなのに、昔から野球が好きだった、大きな手。小さかったゆすらがはぐれないように手をつないでくれた、頼もしい手。その手が、握りしめたこぶしを優しくほどいてくれる。
「ごめんね。もっと早く助けられなくて」
抱きしめられ、背中をさすられ、優しい言葉で甘やかされて、泥のように不明瞭な意識が、ふわふわと浮いてしまう。
「あぐちゃん」
昔のように彼を呼ぶと、ゆすらも、昔のように呼ばれた。
「ゆっちゃん」
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