貴方の声

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 その夜はトラに餌を持って行かなかった。トラの怯えた顔が頭から離れず、余計な関わりを持たない方が私の心の平穏の為になると判断したからである。そもそも私は、なるべく誰とも関わらないようにして日々を過ごしてきたのだ。誰かから何かの刺激を受ければ、感情の(たが)が外れ、いつ悲しみの発作に見舞われるか分からない。  私は心中を夫の遺影に訴えた。夫は照れ笑いを浮かべるばかりで、当然返事は帰ってこなかった。  翌朝、眠れずに熱を持った目を擦り、ごみ捨ての為に外に出た。トラはウッドデッキの上で寝ていた。私が息を潜めて見ていると、顔を上げ、じっとこちらを見た。そして、口を開けた。  声は聞こえなかった。けれどトラは、私に対して何かを訴えた。それは私の中で大きな事件であり、私の心中を大いに揺らした。謝ったつもりだろうか。それとも、見るなと言っているのだろうか。私は一日中考えた結果、性懲りもなくウッドデッキに猫餌と水の入った皿を置いた。トラはいなかった。けれど、きっとここへ帰って来るに違いないと思った。
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