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激しい怒鳴り声とともに、景子の悲鳴が聞こえる。
「あなた! やめて〜!」
更に、ガッチャ〜ン!という何か物が壊れる音と、再び美羽の泣き声が加わった。
そんな荒々しい物音が、しばらくの間アパートの一室から漏れ聞こえていたが、
「分かったら、さっさとビールを買って来い!」
という洸一の一括で、ひと段落つく。
同じアパートの棟には、他にも住人がいたのだが、この激しい騒ぎに対して、いつもの事だと諦め、また他の家の揉め事に関わり合いたくないと思い傍観されていたのだ。
夕暮れにはまだ早すぎる太陽さえも、雲の間に隠れて、その様子をひっそりと窺っているかのように感じる。
そして、アパートの隣の部屋では・・・。
小さなテーブルを前に座り、隣から聞こえる騒ぎ声を静かに見守る一人の男性がいた。
ぽっちゃりとした体型に、無造作に伸びた髪。安そうなTシャツに、センスのないジーンズを履いている。
珍しくもない、いつもの隣の騒ぎ声に、ただじっと座ったまま聞いていた。
李念 耕二《りねん こうじ》。28歳。
壁一つ隣の怒鳴り声は、毎日の日課みたいに聞き飽きていたはずだが、李念はそれに対して思い詰めている様子。
そんな、ある朝の事。
李念は、Tシャツにジーンズという格好で背中にリュックを背負い、仕事へ行くところだった。
髪の寝癖も気にせず、玄関に鍵をかけていると、ちょうど隣の部屋のドアが開く。
「ふぁ〜。コンビニ、行ってくるぞ〜。」
そう言いながら出てきたのは、竜崎であった。
鍵もかけずに竜崎は、またあくびをしながら、通路を歩いていく。
その時、立ち尽くしている李念と、行き違いざまに体がぶつかる。
「痛っ!」
肩ごと、ふらついた李念は、すぐさま体制を整え、慌てて謝った。
「あ、すいません。」
それに構わず、背の高い竜崎が、鋭い顔つきで李念に押し迫る。
「ぶつかっておいて、すいませんで済むかよ。」
怯えながら恐縮した態度で、李念がかしこまって再び、謝罪した。
「あっ、・・す、すいません。」
竜崎が顔を近づけて、威嚇してくる。
「だから〜、すいませんで済むかと言ってるだろ〜。お前、隣に住んでるヤツだな。名前は何だ?」
そこまで言って竜崎は、李念の入口の表札へと目を移した。
「ふ〜ん。お前、リネンっていう苗字か。珍しい名前だな。」
威圧的態度に、萎縮している李念は、声も出ない。
その間にも、ジロジロと顔を見回す竜崎だったが、すぐに李念の頭をポンポンと軽く撫でるようにして言った。
「まあ今日は、許しておく。俺も急いでるし。でも、お前の名前は覚えとくぞ。」
李念が身動きすら出来ずに、その場に留まっているうちに、竜崎は言い捨てて、去っていってしまう。
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