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「美羽ちゃんかぁ〜。えっと、竜崎美羽ちゃんだね。」
李念は自分自身でも、笑顔を作る事がこんなにも下手くそになったのか、と改めて再認識する。
思えば、仕事中もほとんど会話する事もなく、それ以外の日常生活でも笑うという機会がないのだ。
笑顔って、しなかったら徐々に忘れていくものなのかなあ、と李念は思った。
「オジサンの名前は?」
突然、今度は美羽の方から、問いかけられたので、李念は一瞬面食らう。
「あ、ハハ。オジサンの名前? ・・うん。僕の名前は、耕二。李念耕二だよ。」
美羽は真顔のまま、すぐに言った。
「リネン? ・・変な名前。」
「ハハ、そうだよね。変な名前だよね。子供の頃から、よく言われたよ。」
李念はそう言いながら、苦笑いで自分の頭を掻く。
美羽は警戒した様子で、プイッと向こうへ顔を背けた。
思い返せば、李念はここに住みはじめて6年程経つが、隣に住んでいる美羽にきちんと会うのは、これが最初である。
それまでは、乳児の時から泣き声は聞いていたし、数ヶ月前に見かけた時は両親に連れられて出かけていく後ろ姿だった。
「あ、あの、美羽ちゃんは・・・。」
李念が何か言いかけた時、隣の家の玄関ドアが開いて、誰かが出てくる。
美羽の母親らしき女性であった。
「美羽。外で待ってたの?」
その直後、母親の景子は李念の存在に気がつき、黙ったまま軽く頭を下げる。
それに対して、李念も頭を下げて挨拶を返した。
「あ、おはようございます。」
景子は慌ただしく、玄関ドアに鍵をかけると、美羽の手を引いていく。
「美羽。保育園に遅れるわよ。」
玄関前に立ち尽くしたまま、じっと見送る李念。
景子と美羽の姿は、階段へと消えていった。
翌日。
李念は、いつものように漬物工場に出勤していた。
そして、コンベアーで流れてくる野菜と格闘している。
そこへ同僚のおばさんが、李念の傍にやってきて、けたたましい機械音を遮るように、耳元に近づいて言った。
「李念くん。工場長が、呼んでるわよ。」
「あ、はい。」
李念は言われるがままに、仕事を中断して役員室へと向かう。
その間も、この工場の作業機械は止まる事なく、規則正しく動き続けた。
李念の手が遠慮気味に、役員室のドアをノックする。
「はい、どうぞ〜!」
中から太い声の主が、返答した。
「失礼します。」
李念はドアを開けて、中へと入っていく。
12畳程の部屋に、デスクが3つ配置されており、それぞれの席について仕事をしていた人物たちが、チラリと李念の方を見た。
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