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第一話『No,grazie』
就業時間を終え自室で『地球』の研究に没頭しているところだったⅩは少々重い気持ちで腰を上げた。
カツカツと硬質な靴音を立て白衣の長い裾を翻しながら足早に歩を進める。
効率を重視するⅩの思考回路の中でも、博士の呼び出しは最優先事項である。
『博士の命令は絶対である』
Ⅹはそういう風に造られている。
博士の突然の呼び出しはそう珍しいことではない。
本来睡眠を必要としないⅩにとっては、いつ何時の呼び出しであろうと何の支障もない。
夜通しチェスの相手をしたり、博士の昔話につき合ったりする時間は嫌いではない。むしろ光栄である。
己を造ったドットーレ博士はいわば創造主であり神も同じ。
博士と過ごす時間は尊いものだ。不満などあろうはずもない。
ただ、Ⅹは己の部屋から出歩くのが気が進まないのだ。
なぜなら、外は『無駄』が多い。
「……あのっ、待ってください!」
さっそく、後方から駆け寄る靴音。そして後に続く緊張したような女性の声。
しぶしぶ足を止め振り返れば、地下にある研究所の長い廊下に身を縮ませるようにした耳まで真っ赤な女性の姿があった。
同時に目に入る、磨き抜かれた白い壁に映る己の長い翡翠色の髪と紅い瞳。
(ああ、またか)
Ⅹは無表情のままにそう思った。
Ⅹにとっては特に興味のない己の容姿も、研究所の職員たちにとってはそうではないらしいのだ。
「あの、あの、一度だけでいいんです! ……Balliamo?」
灰色の髪を揺らして女性が息を整え、勇気を振り絞ったように発した聞き慣れた言葉。
対してⅩは、うんざりするほど言い慣れた台詞を機械的に返した。
「No,grazie」
冷ややかにそれだけ告げると踵を返し背を向けた。
わっと泣き伏せる女性を慰める他の職員たちの声が背後でさわがしい。
就業時間外に出歩くと必ずと言っていいほど出くわすこの光景。
Ⅹは辟易していた。
博士もどうせ造るのならばもう少し地味な造形にして下されば良かったものを。正直そう思わない日はない。
(また無駄な時間を費やした)
ふうとため息をつきながらもⅩは気を取り直し、最下層にある博士の研究室へと向かう。
研究所内での特殊能力の使用は禁じられている。
少々行儀が悪いが走った方が無難かもしれない。
そう判断して走り出すと不意に肩を叩かれた。
「よう、デーチモ。相変わらず表情筋死んでんなあ!」
長身の男が並走しながらニヤニヤ笑ってこちらを見ている。
「Ⅴ。君も博士に呼ばれたのか」
Ⅹは己とよく似た造形の男をチラリと見るとそう尋ねた。
「かわいそうに。なかなかの美人だったのに。ちっとはニコリとでもしてやれよ」
紺色の短髪の男は問いには答えずにそんなことを言いながらケラケラと笑いⅩの肩を親しげに抱こうとする。
Ⅹはそれをするりと躱しながらその腕をぺしッと軽く払いのけた。
「だったら君が相手をしてやればいい。同型なんだ」
「冗談。俺はセストちゃん一筋だ。研究所内でも公認の仲だからな」
己と色違いの男は真顔でそう言うとケラケラと笑った。
「つーかよ、ンとに無粋なじじいだよな。これから二回戦突入だったってのによ」
Ⅴは走りながら小脇に抱えた少年を両腕の中へひょいと抱き直した。
Ⅴは視線を下ろすとだらしなく頬を緩め目尻を下げる。
「ああ、堕ちたか。見ろよこのエロ可愛い寝顔、……いや待て。やっぱ見るな! 俺のセストちゃんが減る」
相変わらずⅤの言っていることはよく分からない。
淡いピンク色の髪を揺らして頬を紅潮させてスウスウと寝息を立てるⅥはⅤの恋人だ。
はだけた首筋や胸元に点在する噛み痕と鬱血痕。明らかに情事の名残を残すそれ。
こんな小柄な身体で夜も更けぬ内からこの色欲魔神の相手をしているのかと思うと心底気の毒になる。
「ほら、起きろセスト……。じじいに叱られるぞ」
Ⅴが頬を寄せ砂糖菓子のように甘い声音で囁くと、Ⅵは淡いピンクのフサフサの睫毛を揺らしてぱしぱしと何度か瞬きをした。
そして、Ⅹと目が合うなりいい加減大きな青い瞳を全開までかっぴらいた。
「ええー!? ハア!? なんでボクの部屋にデーチモがいるわけ!?」
ⅥはⅤの腕の中から飛び降りるなりぎゃあぎゃあと大変さわがしい。
「たまには3Pもいいかと思って俺が呼んだんだ」
Ⅴが足を止め、身を屈めてニヤリと笑ってⅥを覗き込む。
Ⅵはみるみる内に顔を真っ赤にして全身を怒りに震わせるなり、バッチーン! と派手な音を立てて豪快に開いた手のひらを振り抜いた。
「クイントの……変、態ッ!」
小さな身体の割にパワフルな平手打ちをモロにくらいⅤは二メートル先の壁面まで派手に吹っ飛んだ。
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2021.7.21
ニコ
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