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「ひゅー、思ったより寒いっすね」
「上着持ってきてよかったわね」
「はは、塩谷さん、農家のおばちゃんみたい」
高根沢君が私を指さして笑った。確かに、肌が露出しないようにウインドブレーカーとシャカシャカするズボンを履き、軍手をし、裾を靴下の中に入れ込んで、大きなつば広帽子をかぶっている姿は農作業に勤しむご婦人のようだ。この重装備は人間と見れば襲ってくる蝿よけのためで、帽子の周りはぐるっと虫よけの網で覆われていて、さらに中でサングラスをかけている。
「人を指さすの、やめなさい」
「すみませーん」
そう言う高根沢君も同じような恰好をしていたが、私は行儀だけを注意して周囲を見渡した。
見渡す限りの青い空と赤い大地、ここはかつてエアーズ・ロックと言われた場所、今は先住民の言葉で『ウルル』と呼ばれている場所だった。私は仕事仲間の高根沢君とオーストラリアに来ていた。高根沢君が手で払っても払っても寄ってくるハエに眉をしかめながら言った。
「でも、喜連川先生、来なくて正解でしたね。こんなにハエがブンブンしてちゃあ」
「そうね、大の虫嫌いだもんね」
『喜連川先生』とは、喜連川百合子、気鋭のホラー作家だ。最近の著作はベストセラーになっていて、各種メディアにも進出している。わが出版社からも著書を出版することが決定し、私は彼女の編集担当に抜擢された。そして彼女の取材旅行に、カメラマン兼荷物持ちの高根沢君と、意気揚々と同行するはずだった。
しかし直前に、先生にテレビ出演の打診が入った。先生が出てみたいと言っていたお昼のテレビ番組のコメンテーターだ。先生はそちらに対応すると言い出した。
私たちは先生の事務所に呼びつけられた。
「あなたたちで行ってきてくれる?」
先生の言葉に高根沢君は半泣き状態だった。
「そんなあ、ウルルっすよ? 行くのなかなか大変だし、先生ご本人が行かないのに行く意味あるんですか? シドニーならいいけど」
「先生。ストーリー上、ウルルである必然性はあるんでしょうか?」
恐る恐る私が尋ねると、先生はむきになって怒った。
「あるわよ! 私はワールドワイドな作品を書きたいの! 日本人の青年とアボリジニの女性がウルルで出会って、言語、人種、環境、あらゆる困難を克服して愛を成就させる、美しいホラーを書きたいのよ! 現地のことをできるだけ詳細に報告してちょうだい……あっヤダ、虫! 誰か、殺虫剤持ってきて! 早くう!」
普段は空気の読めない高根沢君も、それ以上は大作家に口出しできず、私の後ろで黙り込んだ。第一、すでに先生が今回かかる旅費を我々の分まで支払ってくれていたので、行かないわけにはいかなかったのだ。
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