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ようやく部屋の前までたどり着いた。私はバッグから鍵を取り出し鍵穴に差そうとしたが、腕が震えてすんなり入らなかった。ガチャガチャしながらようやくドアを開けると、廊下の突き当たりのドアがゆっくりと動いていた。
「……夏希?」
低音の、心地よい声が聞こえた。その声の持ち主――私の彼――の無事を確かめるためだけに、私は必死で戻ってきたのだ。私と同い年だが、出てきた彼の頭の位置は低い。車椅子が千秋を乗せてすうっと近づいてきた。
「おかえり、夏希」
千秋は微笑みながら、いつものように車椅子で出迎えてくれた。私はヒールを脱ぎ捨て、バッグもほおり投げて車椅子にかけよった。そして腰を屈めて彼に抱きついた。
「どうした?」
「何度も連絡したのに反応なかったから……何か大変なことが起こったんじゃないかって」
「ああ、ごめん。音楽聞いてたからかな」
「音楽?」
「ひとりだったから、大きな音で洋楽を聴いてた」
千秋は、真面目なのかとぼけているのかわからないくらい平然と話した。何事もなくて本当によかった。でも、少しくらい私のことを思い出してくれてもいいのではないだろうか。
「留守中、何もなかった?」
「ああ、買い物に行ったよ」
「え? ひとりで?」
私が驚いて千秋を見ると、彼は少し照れたように笑った。
「すぐそこのコンビニだけどね。リゾットを作ったんだけど、カイエンペッパーが無くなってたから、売ってるかなって」
「千秋……」
私がいつも使う、大好きな調味料のカイエンペッパー。コンビニには置いてなさそうだ。
車椅子で暮らすようになってから、ひとりで出かけたことなんてなかったのに。
「ありがとう、千秋も冒険してたんだね。次は一緒に行こうね」
なに冒険って、と千秋が笑った。千秋の横にひざまづいて、アームレストにのった彼の腕に頬をのせると、彼はもう一方の手で私の髪を撫でた。その手の温もりは、緊張で高ぶっていた私の精神状態を穏やかに解き放った。
「お疲れ。あまりがんばらないで、上手く怠けるんだよ」
ふふ、そんなの無理。千秋こそ。
「千秋、大好き」
私は、やっと私の場所に戻ってきた。
私は千秋が作り出す『空間』が好きだ。それは仄明るい水平線が朝凪にそよぐようで、新鮮で穏やかだった。ここで私は心身ともに深い安らぎを得ることができる。
――ほら、意識が落ちていく。揺蕩う瞬間に心地よく身を任せる。ああ、やっと眠れる――
「……夏希、なっちゃん」
千秋の声が降ってきて、肩をそっとたたかれた。私は千秋の腕から頭を上げた。一瞬のうちに眠りに落ちてしまったようだ。
「ここで寝ちゃだめだよ。もう休む?」
「ううん、リゾット食べる。せっかく千秋が作ってくれたんだから」
私はなんとか立ち上がり、千秋の後ろに回って車椅子を押した。数日振りにリビングに入ると、きれいに整えられていて、爽やかなトマトの匂いとちょっぴりスパイシーな香りがした。
「で、夏希の出張はどうだったの?」
千秋が横のキッチンで鍋に火をつけながら私に聞いた。私は皿とカトラリーをテーブルに並べながら答えた。
「ええっとね」
ふと高根沢君のへらへらした顔が脳裏に浮かび、ぶるぶると首を振った。
「ごめん、今は思い出したくない。疲れたよ」
「そう。じゃあ食べたらゆっくりおやすみ」
千秋がいつものように微笑んだ。
*The end*
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