おやすみ、常盤さん

1/4
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
「おやすみ、常盤(ときわ)さん」  僕のそのひと声は、この狭い6帖の空間に虚しく霧散した。  どちらかが寝てしまったら、起きている方が電話を切るという約束になっている。と言っても、その役目を果たすのは僕ばかりであるが。一度くらい、彼女の「おやすみ」を聞いて眠ってみたいなあとぼんやり思う。  静かな寝息が聞こえてきた。僕はいつも、すぐには電話を切らず暫くそのままにしている。なんだかんだ言って、僕はこの秘密の時間も気に入っているのだ。心地よいリズムに耳を傾けるなかで、寝言で僕の名前を呼んでくれやしないかとつい期待してしまう。秋津(あきつ)くんと呼ばれることはもとより、登一(といち)くん、なんてうっかり下の名前で呼ばれるのも想像してみた。けれども、実際にそんなことはあるはずもなく、(いたずら)に時間だけが過ぎていく。  そしてたまに、いびきが聞こえてくることもある。 「ふっ」  思わず笑みがこぼれた。可愛くないその音までこんなに愛しく感じるなんて、重症である。僕がいびきを聞いたと知ったら、彼女はどんな顔をするのだろう。怒るだろうか。それとも、恥ずかしがるだろうか。  そんな想像をしていると、(ようや)く眠れそうな気配を感じたので、終話ボタンを押してベッドに身を沈めた。  僕たちのに(いびつ)も感じられるこの関係が始まったのは、2か月くらい前のことだった。  通話の相手である常盤(ときわ)佳煉(かれん)さんは、同じ大学に通う1年生の女の子だ。授業のグループワークで一緒になって、そのために電話でやり取りするようになったのだが、そのうち仲良くなって今では用がなくても電話を繋いでいる。  常盤さんは僕とは真逆の明るい人で、話を聞いていると元気が出る。でも、常盤さんの方はどうだろう。大学構内で常盤さんを見かけると、いつも彼女の周りには人がいっぱいいて、どうして僕のような大して面白い話ができるわけでもない人間に構うのか、わからなくなる。幾夜も僕と寝落ちするまで通話するくらいだから、彼氏はいないのだろうけど。  何はともあれ、彼女に話しかけるあいつらは知らない、僕だけが知っている彼女の一面がある。その優越感と安心感から胡座をかいていると、僕は(たちま)ち地獄に突き落とされることになる。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!