第十章

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 そのとき、目の前に小さな手のひらが突き出された。 「おい、それを貸せ」  シスイが不機嫌な様子で梓豪の端末を要求していた。梓豪が端末を近づけると、時を惜しむようにシスイは端末を引ったくった。 「フィオナ、いや……蛇原柚里(へびはらゆり)」  ひ、というフィオナの短い悲鳴が聞こえた。  蛇原柚里というのは、判明している彼女の本名に他ならない。 「お前が逃げたのは、【蟷螂】と【極楽鳥】が街に来たと知ったからだ。そうだな?」 『……や、やっぱりあなたが……』  シスイの目が、獲物を視認した鳥のようにぎらりと光った。 「自分たちは、お前を殺しに来たわけじゃない。だがここで行方をくらませてみろ、手足をもいでスーツケースにお前専用の部屋を作ってやる」  側で聞いていてもぞっとするほど凍てついた声で脅迫すると、シスイは返事も聞かずに端末を梓豪の手に押し付けた。  梓豪は驚いた顔で端末を受け取ると、画面を見つめた後、一度深呼吸をした。 「……紅紅」  先ほどより落ち着いた声で、部下に語りかける。 『え、ええ……』 「フィオナと一緒に俺の部屋に行って、鍵を閉めろ。俺が行くまで絶対に出るな。手当は部屋の救急箱を使え」 『逃げなくて良いのかしら』 「むしろ動くな。そこなら、俺と炎哥と阿爸しか入れない。俺の部屋の隠し倉庫も知ってるだろ。俺の連絡なしに誰かがフロアに来る音がしたら、そこに入れ」 『わかったわ』  紅紅の覚悟を決めた声を聞いてから、梓豪は通話を切り、隣を見た。話している間に、ハギヤが真面目な顔をして彼の隣に来ていた。 「梓豪、一つ聞いていいかな」 「なんだ」 「きみたちの組織についてなんだけど。もしボスを殺したとみんなに知られている部下がいたとして、その人がトップになることって可能なの?」  梓豪の口はからからに乾いていた。ハギヤの言いたいことはわかっている。だが、脳が答えを出すのを拒んでいる。 「上の人間がよほど嫌われていた場合は、なれるだろうな。だが、阿爸は慕われている。阿爸を表立ってぶっ殺したりすれば、俺たちから袋叩きに遭って人生ごと終わりだ」 「じゃあもし憂炎が徳華を殺したいとすれば、偶然を装うか、自分以外の人間に殺されたんだって主張するだろうね」 「だけど」  梓豪の声が裏返った。咳払いしてから、彼は続けた。 「……だけど俺をどうして狙うんだよ」 「徳華がお前を跡継ぎに指名しているんじゃないか」  今度はシスイが答えた。 「あるいはお前の部下の後押しがあるか、憂炎が念のために跡継ぎ候補ごと抹消しようとしている場合だ。自分がボスになれたとしても、お前を残しておけば派閥争いが起きる可能性もある。表立って殺さないのは、徳華と同じ理由だと考えられる」 「お、俺は別に慕われてなんか」 「過ぎた謙遜は嫌味だぞ」  嫌な顔で一蹴される。梓豪は褒められたのか貶されたのかわからなかった。  シスイは、建物の隙間から覗く、生まれたばかりの月を振り仰ぎながら梓豪に聞いた。 「徳華は今どこにいるか、お前はわかるか? 建築群の中か外か」 「中だ」  迷うことのない即答に、シスイは不思議そうな顔で梓豪を見たが、すぐに無表情に戻る。 「それなら自分たちがすべきなのは、今すぐここを離脱することだ。できればこの建築群の外のカメラに自分たちの姿を映したい」 「どういうことだ」  梓豪の問いに対して、説明したのはハギヤだった。 「憂炎は徳華を殺して、その罪をおれたちになすりつけたいんだと思う。ならおれたちがすぐにここからいなくなれば、憂炎は別の口実を用意しなきゃいけなくなるでしょ。そうなれば、今ここで徳華を殺すのはやめるかもしれない。……まあ、憂炎本人にカメラの映像を消されちゃうかもしれないけど、ここにずっといて何もしないよりはましだ」  シスイが一歩進み出る。 「何も知らないことにして、離脱と同時に、建築群を一旦離れると憂炎に連絡するのが最善かと思う。できるか」  梓豪は思わず一歩後ずさった。 「だ、だけどまだ、フィオナが嘘を吐いているって可能性もあるだろ」  惨めにあがいているのは梓豪もわかっていた。フィオナの言葉は納得できる部分が多くあった。彼女の言うとおりに考えれば、今まで不可解だったことが、色々と説明できる。  シスイが身じろぎせずに言い返した。 「ではオリヴァーの端末を確認してみるとしようか。憂炎との会話記録が残っているかもしれない」 『――その必要はありませんよ』
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