第二章

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歓迎光臨(フンインゴンラム)(いらっしゃいませ)」  照明の抑えられたカウンターの向こうから、落ち着いたハスキーな声が聞こえた。酒瓶が棚に整然と並べられている。カウンター席の後ろには、料理を載せる長卓の他に、緑色の雀卓が三卓置かれ、中央の雀卓に四人が着席して麻雀を打っていた。  二人は雀卓に近づかないようにしながらカウンター席の角を囲んで座り、年齢確認のためにパスポートをかざしてから、ブランデーとナッツを注文した。しみじみとした曲調の歌謡曲が流れている。二人の他に客はいなかった。 「ここは普通話が使えるって聞いた」  ハギヤが言うと、店主は「使えるわよ」と艶のある話し方で応じる。  カウンターの向こうに性別不明な店主が一人だけいた。深紅のドレスが、曲線よりも直線が目立つ細身を包み、化粧と巻いた髪は派手ながらも品を失わない。  突然、ジャラジャラと喧しい音が響き、しばらくすると静かになった。雀卓で新しい一局が始まったらしい。  ハギヤは麻雀をしている者たちを刺激しない程度に、それとなく雀卓を見やった。  牌山がひし形に並べられ、捨て牌が並べられることなく乱雑に放り投げられている。日本麻雀では見られないが、香港では珍しくない場の光景である。  ルールも日本と香港では少しずつ違っている。リーチやフリテン、ドラの概念がなく、また字牌や数牌の他に花牌という牌を使って得点を競う。  卓を囲んでいるのは全員が男のようだった。派手な色のTシャツを着た三人は中年以上の年齢層に見えるが、スーツを着た一人だけはひどく若い。  十四歳、高く見積もったとしても十六歳というところで、青年というより少年だ。それなのに四人の中で唯一煙草の煙をくゆらせている。電子煙草が普及した今では見ない代物である。  少年は茶褐色の長髪を前髪ごとまとめては、後頭部の低い位置で一本に束ねて肩に垂らし、淡い緑色のシャツを着ていた。座席の後ろに漆黒のスーツの上着を引っ掛け、煙草を持った腕の肘を卓について身体を傾けている。 「ガン」  少年が鋭く言った。ガンとは鳴きのカンを意味する。  やはり若い声色だったが、風貌からしてただの若者ではなさそうである。三人の男が薄汚れた身なりである一方で、少年のスーツはどう見ても安物ではない。 「ここは麻雀ができるの? 看板には書いてなかったけど」  ハギヤが聞くと、店主は酒をグラスに注ぎながら答えた。 「この街には麻雀好きな人が多いの。ルールも配当も私は関与してませんから、やるなら自己責任でね」  柔和な笑みを浮かべて見せる。  ハギヤも人の良さそうな微笑を貼り付けた。 「おれはやらないかなあ。不器用だからよく牌を倒すし、何より来たばかりで勝手に賭け事なんかして、このあたりを仕切ってる人たちに目をつけられちゃたまんないしね」 「あら、東龍慶に来たばかりなのね」 「そうなんだよ。ひと目懐かしの九龍城を見たくてね」 「冗談がお上手ね。お客さんは九龍城があった頃に生まれてもいなかったでしょうに」 「はは、あなたもそうなんじゃない?」  性別どころか年齢も不詳の相手にハギヤが言ってみると、店主は笑みを深めた。 「ご想像にお任せするわ。家族でご旅行?」 「そんな感じ。姉さんと一緒にね」  でまかせだ。天涯孤独の孤児二人だし、実際はどちらが年長なのかさえ知らない。ハギヤは酒を受け取ると、店主に聞いた。 「このあたりで物騒なとこには行かないようにしたいから、危ない区画とかを教えてくれないかな。マフィアの本拠地とか、人がよく消える通りとか」  麻雀を打っている少年が僅かにハギヤの方を見やる。  視線に気づいたシスイは、座り直す際に足が当たったふりをして、ハギヤのふくらはぎのあたりを爪先で軽くつついた。 「このへんはそんなに治安悪くないわよ。それに――本拠地なら他に詳しい方がいると思いますけど」  店主は長い睫毛を上下させ、雀卓の方を見て悪戯っぽく言った。ハギヤは店主に倣って雀卓を振り返ったが、ちょうど少年は場に顔を戻していた。  店主は肩をすくめてハギヤに視線を戻した。 「まあ、中心部の通りには行かない方が良いわね。ビル群のあたり。一度入ったら出て来られないわよ」 「そんなに恐ろしいところなのか?」 「それはもう」  店主は楽しそうにうなずいた。 「麻薬取引なんて日常茶飯事。変な味がする肉団子、無免許の医者に目玉のない占い師、巨大な肉切り包丁を持って徘徊する警備ロボットもいるし、街の清掃ロボットの中を開けてみたら人間の死体が……」 「おい紅紅(ホンホン)、くだらねえこと言ってんじゃねえよ」  少年のがなるような普通話が雀卓から飛んできて、店主は舌を小さく出した。
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