第三章

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 二人が客室に戻った時には、夜も更けていた。  二人が泊まっているのはツインルームである。戻るとすぐ、二人は部屋に侵入の形跡がないことを確認した。扉と窓に挟んでおいた小紙片は落下していないし、意図的につけたシーツの皺も変わっていない。  ハギヤは自分の寝台に腰掛け、シスイは壁に寄りかかる。 「このまま梓豪に同行したい」  シスイが腕組みをしながら言うと、ハギヤは投げやりな調子でうなずいた。 「同意」 「実に不本意だが」 「それも同意」  今のところ、二人の目的である『フィオナの確保』から外れてはいない。分水嶺に到達するまでは、流れに身を任せておくべきだ。  シスイはぞんざいにジャケットを脱ぎ捨てて白いTシャツ姿になると、ハギヤの足元に静かに屈み込み、彼のブーツの靴紐をほどき始めた。ハギヤも大人しくその様子を見下ろしている。 「ありがとう」  紐がほどかれると、ハギヤは靴を脱いで礼を言った。シスイは立ち上がりながら肩をすくめて応じる。 「やっぱりおれは紐のない靴にすべきだと思うんだけど」 「戦闘中に脱げてもいいなら止めない」  一瞬の沈黙。 「……シスイは結ぶの上手だよね」 「ひとの二倍やってたら上手くなる」  シスイは立ったまま自分のロングブーツの靴紐を器用にほどき、よろめくことなく足からするりと抜き去ると、壁際に揃えて置いた。首を振って髪を払い除けながら聞く。 「シャワー先でいい?」 「どうぞ」 「寝てたら起こすからね」 「ふぁい」  欠伸混じりに答え、ハギヤは部屋に何か時間を潰せるものがないかを探した。テレビはあるが、余計な音を出してしまうことは避けたい。敵の襲撃に気づくのが遅れるかもしれないからだ。  オリヴァーに連絡することも考えたが、旅社に電波を拾われて彼へ辿られる危険もある。オリヴァーからの連絡もない。  観光冊子と宿泊に関する注意書事項を斜め読みしてしまうと、ハギヤは観念して睡魔に身を委ねることにした。どうせシスイ以外の人間の気配がすれば起きるし、何より彼女のシャワーは長いのだ。  夢の中では、雨が降っていた。シャワーの音を、脳が雨音だと勘違いしているのか。  ハギヤは七歳くらいの年頃に戻り、教室の窓ごしに外を見ていた。灰色の空を背景に、濁った雨粒が幾筋も流れていき、遠雷が静電気のように光る。  戦術論の授業はいつも退屈だ。心も七歳当時に戻って、ハギヤはそう思う。  戦術なんて、状況に対応したものを捻出できる程度にいくつか詰めておけばいいのであって、名前を逐一覚えておく必要はないはずだ。  それより彼は、実習のほうが好きだった。特に剣術の実習が好きで、多くの自己流の技を生み出して級友を翻弄してみせては、先生に褒められつつも窘められた。あまり我流を貫くのは歓迎できないという。  戦争に勝てばいいなら、つまりは一人でも多く殺せばいいのだ。殺し方など何でもいい。  ハギヤは強くそう思っていた。現に今日も先生は、黒板の前で人間の急所に関して熱弁している。  欠伸を噛み殺した時、隣の席から丸めた紙が飛んできて、目の前に転がった。  隣に座っているのは同じクラスになったばかりの少女だ。名前はなんと言ったか。黒い髪に、綺麗な蒼い瞳を持つ女の子ということしか覚えていない。  メモを開くと、几帳面な字でこう書いてあった。 『ひるやすみ れんしゅう しよう』  そうだ。この女の子について覚えていることがもう一つあった。  彼女は体術に大変優れていた。昨日の実習でも、自分より一回り大きな相手を足払いで見事に転ばせてしまったのだ。  ハギヤは少女に一目置いていた。彼女から体術の技を盗めれば、自分の剣術に活かせるかもしれない。  承諾の返事を書いて投げ返すと、先生の目を盗んで彼女がこちらを向いた。少女は可愛らしく、はにかんでみせた。  突然、その頭が斜めにずれた。  ごとん、とはにかんだままの頭が落ちる。首に美しい切れ味の切断面が残っている。血が故障したホースの水のように撒き散らされ、ハギヤの顔にもかかった。  ハギヤは茫然と、頭のない少女の座ったままの体を見ていた。  ごとん。ごとん。ごとん。鈍い音がいくつも響き渡り、ハギヤは緩慢な動作で少女から視線を引き剥がした。  あちこちで首の切断面が咲いていた。血液の噴水が放射線を描く様は、彼岸花の花畑に似ている。  先生の首も落ちた。それなのに体は動いて、チョークで淡々と文字を書いていく。 『おまえ』  見てはいけないと思うのに、ハギヤの瞳は文字に引き寄せられたまま離れない。  わかってはいけない。見てはいけない。理解してはいけない。  ハギヤは瞬きもできないまま、黒板の文字を見ている。 『おまえが ころし ました』
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