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『魔窟』の内部に足を踏み入れた瞬間、セメントや濡れた木材、魚肉の臭いがむあっと漂ってきた。
漆喰の壁には赤のペンキで「油灯街」と書いてある。整った美しい字だ。この間隙のようなところさえ、通りの一つのようだった。
最初の数メートルは太陽光が届いていたが、奥へ行くに従って上階の外階段や渡り廊下の影が落ち、光源は人工的な白い明かりを残すのみとなった。アスファルトの黒い地面は湿っており、低地にはどこかの店のはみ出したホースが水を流し続けている。
通行人とすれ違う際に少し身体を傾けなければならないほど狭い道を、梓豪、シスイ、ハギヤの順に並んで歩いていく。
一抹のデジャヴュを纏う光景だとハギヤは思った。敢えて例えるならば、暗くて狭くて道の曲がりくねった日本のアーケード街という印象である。商店街を丸ごと巨人の手でぎゅっと押し潰し、歪曲させ、太陽光が差し込まないようにしたならば、この油灯街に似た光景になると思われた。
赤錆を着古したようなシャッターを降ろしている店も多くあるが、営業しているところからはうっすらと光が漏れてきている。通り過ぎる際にハギヤが覗いてみると、麺を手作業で切っている様子や、硝子玉のような形の飴をステンレスの台の上に転がしている風景が見えた。機械を操っている男に睨まれ、ハギヤは慌てて目をそらした。
シスイが梓豪に声をかけた。
「探す当てはあるのか」
梓豪の背中が答える。
「ここの住民は道に迷わないように、基本は特定の範囲内でしか行動しないから、近所同士は嫌でも顔見知りになる。そうなると知らない顔にはすぐに気づくし、近所で事件が置きたら面倒だから、一応何でも、自警団に報告する習慣ができる。で、フィオナはここの住民じゃない。俺は自警団の本部に面識がある。後はわかるな」
住民以外が出入りしたという目撃情報の集まる自警団の本部に向かっているということだ。ハギヤが驚いたように言う。
「自警団なんてあるのか」
「警察の介入を最低限にしてもらう代わりに、自分たちで治安を守る約束をしてんだ。それくらいあるさ」
九龍城にも、住民たちの団結による治安維持や、得体の知れない組織の圧力による犯罪抑止はあったようだが、その役割を自警団が引き継いでいるのかもしれない。
しばらく三人は黙って油灯街を進んだ。火角街と壁に大きく書かれた新しい通りに出たところで、景色は若干の変化を見せた。
これまでは舗装は不十分ではあれど、上り下りの少ない平坦な道を進んでいたのだが、火角街では階段や斜面などの高低差が目立つようになった。随所に空気穴のように太陽光が差し込む、吹き抜けが形成されている。
背の高い電柱や建物の壁と同化している配管には、離れてみるとモザイクのようにも見えそうな種類と量の紙片がびっしりと貼られていた。風化したものから新しく印刷されたものまである。性病の名前を大きく掲げる病院の広告、新聞の切り抜き、手書きでプロパガンダを謳うビラ。
高低差を活かしてか、目線の高さよりさらに上まで貼られており、まるで紙片の塊を凄まじい勢いでここら一帯にぶつけてできたような有様だった。
電話番号と共に部屋を売る宣伝文句が壁に書かれている建物の階段を上りつつ、降りてきた人間に道を空けようと身をよじった梓豪は、ふと何かに気付き、広東語に切り替えて言った。
「……あれ、オリヴァーじゃん。珍しいな」
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