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火角街を過ぎ、再び薄暗い通りに入った。等間隔に蛍光灯が取り付けられ、蛇腹のルーパー窓から室内の明かりと料理の匂いが漏れてきている。腐りかけの魚の臭いを充満させている魚肉加工工場を通り過ぎた頃、どこからか水滴が落ちる音を聞いて、梓豪が立ち止まった。
低い天井を走る無数の太い配管の一本から水が垂れて、水たまりを作っていた。梓豪は携帯端末を取り出すと、あたりを見回して、壁に書いてある住所を素早くメモする。
従業員らしき初老の男が、魚肉加工工場から顔だけ出してきた。
「そこな、一昨日から水漏れしてんだよ」
梓豪は片手を振って答える。
「炎哥に言っとく」
「頼むぜ、梓梓」
顔を引っ込める際に男は異邦者をぎょろ目で見たが、何も言わずに仕事に戻った。
梓豪は端末をしまうと、天井を見上げて言った。
「ここの上下水道を整備したのは炎哥だ」
「炎哥って、昨日会った憂炎のことだよな?」
ハギヤが聞くと、梓豪は首肯する。熊のような大柄な体格で、物腰が丁寧なあの男だ。
心なしか、誇らしげに梓豪は続けた。
「九龍城は水道の配備が万全じゃなくて、住民は手作業で水を運んでいたみたいだが、ここは違う。地下から水を引き上げて浄水場を通し、全戸に流す仕組みを作ったんだ」
「すごいな」
ハギヤの素直な称賛に、梓豪はさらに気を良くしたらしい。歩みを再開しながら、饒舌になった。
「炎哥はすげーんだ。十六歳の頃に悪戯で仲間と一緒にマフィアの仕事の邪魔をして半殺しにされかけたところを、阿爸に見いだされたんだとよ。自棄になって半分死体みたいな生活を送ってたところを、阿爸に拾われたって言ってた。命知らずのクソガキからのし上がってさ、今じゃ阿爸の右腕やってんだぜ、すげえだろ」
シスイは黙っていたが、ハギヤは相槌を打ちながら少年の話を聞いていた。阿爸というのは、梓豪の父だという徳華のことである。
ここ数十分でハギヤの中の梓豪への印象は少しずつ変わり始めていた。初めは尖った乱暴者とばかり思っていたが、落ち着いている時は分別のある一面を見せ、住民にも気さくに接している。
梓豪は右の拳を左の手のひらに軽くぶつけた。
「炎哥は俺なんかのことも気にかけてくれて、トレーニングに付き合ってくれるし、色々教えてくれるんだ。将来、炎哥は阿爸の後を継ぐだろうってみんな言ってる。俺は、ぜってぇ炎哥の右腕やるんだ。誰にも譲らねえ」
ハギヤは知らず知らずのうちに微笑みを浮かべていた。自分の自慢話より、他人の魅力を嬉しそうに熱弁できる人間を、彼は心から嫌うことはできなかった。
だからこそ……オリヴァーの置き土産が小骨のように引っかかっている。
『坊やに絆されるなよ』
まさにその通りだ。油断してはいけない。彼は無力な少年ではなく、強化外骨格を付けたマフィアの一員なのだ。
それに、研究中心に書かれていた血文字を忘れたわけではない。先程梓豪は『梓梓』と呼ばれていた。『梓梓、気を付けて』と書かれているのは、彼のことである可能性が高い。
警告について、梓豪に話すべきなのだろうか。それともそれは、少年に情をかけすぎた行為なのだろうか……。
そんなことを考えながら歩いていたハギヤは、少々上の空になっていた。
次の瞬間、彼の視界に星が散った。
「いっだぁっ!」
曲がり角にあった歯医者の看板を避けられず、額を強打したのであった。
ハギヤの悲鳴にシスイが振り返る。シスイの身長なら特に通行の障害にならないような高さの看板だったので、忠告を忘れていた。
梓豪が肩越しに振り返り、呆れた声を出した。
「何してんだよ、置いていくぞ」
額を押さえて悶絶しているハギヤとその様子を見上げているシスイを置いて、梓豪は直進していく。しばらくは一本道が続くので、完全に置いていかれることはないだろう。それに梓豪は一応、監視を言いつけられている身でもある。
――そう思って、二人が少し梓豪から距離を取ってしまったのが失敗だった。
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