第五章

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 忘れもしない、『あの日』の数日後のことだった。  まだハギヤとシスイは『施設』に住んでいた。齢は十四を数えた頃。それは彼らが施設に同じ境遇の子供たちと住み始めてから十四回の正月を過ごしたことを意味していた。  シスイが派遣先で依頼人を殺したというニュースが施設を駆け巡った。依頼人の喉笛を、素手で割った硝子の破片で切り裂いたという。  初めてその話を聞いた時はハギヤも驚いたが、シスイの生命が保証されているらしいことにはとりあえず安心した。無論ペナルティはあるだろうが、シスイが殺処分されることはあり得ないらしい。彼女は替えが効かない、優秀な被験体であったから。  シスイが職員から解放されたと聞き、ハギヤが彼女の部屋の中を覗いてみると、少女は首輪を嵌められて壁際で短い鎖に繋がれていた。両手にはべっとりと血が滲む包帯が巻かれている。  この間ハギヤ同様にセクション間の移送があり、部屋を移されたばかりだったのだが、彼女の新しい部屋は殺風景だった。背の低いベッドと窓しかない。まるでこれでは囚人の部屋だ。  シスイをつなぐ鎖は数十センチほどしかなかった。これではシスイは壁際から動けない。ベッドに行くことも出来ず、座っていることしかできない。  気の毒に思ったハギヤは、扉と壁の隙間に爪先を差し込んで戸を開け、中に入った。 「シ、スイ……?」  ハギヤが入ってきても、シスイは微動だにしなかった。薄く目を開けて虚空を見つめたままだった。  何年もの間、彼女とツーマンセルを組み、窮地を共に生き抜いてきたハギヤが、掛ける言葉も見つけられないほど、シスイは憔悴していた。  思い返せば、彼女に舞い込んできた今回の依頼は、きな臭い話ではあったのだ。  ハギヤとシスイはその戦績の高さから、派遣される時は常に二人一緒だった。派遣先は勿論戦場だ。多くの戦闘用アンドロイドをなぎ倒し、ロボットを屠り、時に人間の兵士も倒した。  ところが今回は、シスイだけが指名された。武装もせず、彼女は派遣されていった。『あんなこと』があったばかりだったというのに。  シスイは理由もなく短絡的に依頼人を殺すような人間ではない。よほど追い込まれ、よほどむごい目に遭わされ、自分を守るために動いたことは、想像に難くなかった。  ハギヤがそっとシスイに近づいてみると、少女が僅かに唇を動かしていることに気がついた。ハギヤはシスイの前に跪き、彼女の口元に耳を寄せた。 「……ハギヤ……………どこ………………どこにいるの……」  彼は絶句した。  シスイは自分より体躯の大きい相手にも平然と立ち向かい、戦場でも顔色一つ変えず敵を屠っていた。明晰で、感情に流されず、けれど日常ではよく笑い、ハギヤに根気強く靴紐の結び方を教え、共に訓練しては勝ち負けにこだわり、負けた時にふくれた。クルトンを混ぜた野菜サラダが好きでよく食べ、不器用な物言いから同僚と諍いを起こしては部屋の隅で膝を抱いて静かに泣き、戦場から帰った後ふさぎ込むハギヤの側に黙って寄り添っていた。  そんな彼女が今、あまりにも痛々しい細い声で自分のことを呼んでいる。 「シスイ」  ハギヤは彼女の顔を覗き込み、必死で呼びかけた。 「シスイ、おれだよ」  シスイの瞳にハギヤは映っていない。彼女の目元は赤く腫れ上がり、頬はとっくに乾いている。もはや、枯れ果てたのだ。 「……どこ…………ハギヤ…………」 「シスイ!」  強引にでも止めるべきだった。後で罰を受けることになったとしても、行かせるべきではなかった。 「ごめん、ごめんね、シスイ、ごめん……」 「……ハギヤ…………いっしょにいて……ハギヤ……」  何度呼んでも、こちらを見ていても、シスイの瞳にハギヤは映らない。シスイの心は此処にいない。  一人でも大丈夫だと言った彼女に、ハギヤは確かにそうかもしれないと思った。シスイは機動力に長ける。今回の派遣先は、敵の殲滅ではなく翻弄や潜入が要求される任務だからこそ、自分は外されたのかもしれない。シスイはしっかりしているし、ぼんやりした自分と違って、一人でも大丈夫だろう。そう思って、彼女を送り出した。  シスイがどんなに不安だったかも知ろうとしないで、彼女は自分など必要ないほど強い人なのだと信じ込んで。 「……シスイ」 「ハギヤ……」  お互いの名を呼んでいるはずなのに、言葉はすれ違う。  彼女の心が砕け散ってしまってから初めて、シスイがどれだけ自分のことを心の拠り所としていたのかをハギヤは思い知った。自分のように、誰かの支えを受けねば立っていられない弱さが、シスイにあるとは思っていなかった。彼女に知らず知らずのうちに甘えていた。 わかってからでは、遅かった。  シスイを抱きしめることすらできない。ハギヤは彼女の前で額づくように上体を折って崩れ落ちた。 「……おれはここだよ、シスイ…………」
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