第五章

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 ――これ以上思い出すな。部屋から出ろ。今すぐ。  東龍慶の一室で、ハギヤは自分を厳しく叱咤した。過去から現在に意識を無理やり引き戻し、深呼吸する。  ハギヤが来なければ、恐らくシスイが様子を見に来る。シスイがこの光景を見て、ハギヤと同じものを思い出してしまうこと、それだけは避けなければならない。  頭が痛い。歯ぎしりをしながら、ふらついて、倒れているアンドロイドに躓く。ハギヤは何とか部屋から出ると、力任せに扉を閉めた。二度と開かないよう、扉を押し込む。  ハギヤは一歩一歩、階段を踏みしめながら上っていった。  三階分上った所で、シスイが壁を背に立っていた。壁を破って作られた広い空間の片隅に、一部屋だけ壁に囲まれた個室が残っているフロアである。個室の扉の前で、梓豪ががちゃがちゃと音を立てながら鍵束と悪戦苦闘していた。  シスイが険しい顔でハギヤに聞いた。 「……どうした」 「怪我はしてないよ」  先回りしてハギヤは答える。自分は相当青い顔をしているだろうが、理由を言うわけにもいかない。  シスイは追求しようと口を開いたが、ハギヤは額の汗を拭ってまたも先に言った。 「梓豪は何してるの?」 「知らない」 「……き、聞いてないんだ」  ハギヤの肩の力が抜ける。  シスイはいつも通りだった。もし、先程の鎖の部屋と同じような部屋が違う階層にもあって、シスイがそれを目撃していたらとひそかにハギヤは思っていたのだが、心配には及ばなかったようだ。  ほっとしたのも束の間、シスイは、鍵を抜いては違う鍵を差し直している梓豪に聞いた。 「何してるんだ」 「シ、シスイ」  作業中の人間にあんまり話しかけないほうが良い、とハギヤは言おうとしたが、意外にも梓豪は怒った様子もなく答えた。 「今にわかるって」  ちょうど、鍵の開く音がした。  梓豪を先頭に三人が入っていくと、扉の先には誰も居ない居室があった。  畳まれた寝具が部屋の中央に敷かれ、脇には背の低い箪笥と四足のテーブルが壁に立てかけられていた。箪笥の上には写真立てと仏壇が揃っている。ベランダへと続く深い緑色のカーテンは閉められているので、中はとても暗い。  部屋の隅にある小さなコンロと流し台には、空の急須や茶筒、茶碗が直に並べて置かれていた。どれも綺麗に洗われて、すでに乾いている。  生活の匂いが生々しく残っているにも関わらず、人はいない。部屋だけが置き去りにされている。  梓豪は全員が部屋に入ると、扉の鍵を閉めた。土足で上がり込み、マッチを擦って仏壇の前の蝋燭に火を灯すと、寝具の脇に座る。 「俺たちが他人の部屋に入るとは連中も思ってないだろ」  梓豪の声は抑え気味であったが、得意げな響きを隠しきれていなかった。 「勝手に入って大丈夫なのかな?」  ハギヤは入り口から一歩も踏み込まずに聞いた。シスイも動かずに辺りを観察している。  梓豪はカーテンを見ながら答える。 「ここに住んでた爺さんはこないだ死んじまったからな。俺は片付けでもう何度も入ってる」 「そういう仕事も、きみの管轄なんだ」  ハギヤの言に、梓豪はうなずいて見せた。 「爺さんが残した情報からは家族に辿れなかった。そういう人間は、死後俺たちが財産をもらうことになってる。……あればな」  シスイは箪笥の上の写真立てを見つめ、指差した。 「この写真の人間は?」  経年劣化の著しい色褪せた写真には、若い男性と女性が部屋の中で笑っている様子が映っている。よく見ると、写真の右に黒いマーカーで『九龍城にて』と広東語で書いてある。 「さあな。絶縁したのか死に別れたのかは知らねえよ。ただ、見つけられなかった。数十年交信を絶っていたみたいだ」  梓豪は立ち上がり、カーテンの隙間から外の様子を確認しながら、ぽつりと言った。 「ここにはそういう奴も多いんだ。ここにしか居場所がないような奴が」  残されたものから、ハギヤは出会ったこともない老人の姿を思い描こうとした。  しかし、ここには最低限のものしかない。茶筒のパッケージも擦り切れて読めないし、家具は梓豪が片付けてしまったものだろうから掃除の癖を感じ取ることもできない。  香の匂いが部屋に染み付いているから、信心深い人間だったのだろう。写真には折り跡があるから、昔は持ち歩いていたものを晩年になって飾ったのかもしれない。写真立ては比較的新しいものだった。  老人は確かにここで生活を営んでいただろう。その生活に、人生にどれほどの彩りがあったのか、想像もつかない。ただ彼は、九龍城によく似たこの場所で、最後の一時を過ごすことを望んだのだろう。  梓豪も元の場所に座って、ぼんやりと虚空に視線を放っていた。蝋燭の光が揺れる部屋に、今は亡き家主の姿を見ているのかもしれなかった。 「……うっわ!」  突如、携帯端末の着信を知らせるバイブ音が響き渡り、梓豪は飛び上がった。懐からそのまま吹っ飛ばしてしまいかねない勢いで端末を出し、発信者を確認する。
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