第六章

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「俺の爸爸は随分前に死んだ。徳華さんは、俺の媽媽の兄貴で、爸爸とも仲が良かった。昔職場が同じだったんだ。そのよしみで……俺を引き取って息子として育てると言った」 「……お母さんは?」 「俺が赤ん坊の頃に死んだ。爸爸はそれが原因で仕事をやめて、徳華さんに誘われてこの街で暮らし始めた」  そっか、とハギヤは小さく相槌を打った。シスイは黙って梓豪を見ている。  梓豪は教壇の上にかかっている十字架を見つめていた。 「俺の名前をつけてくれたのは、爸爸だ。もうあんまり、顔も声も覚えてないけど」  宙に浮かんだ少年の言葉は、どこかぼんやりしていて、険の取れたものだった。  カーテンが風にそよぎ、光が射し込む。梓豪が眩しそうに、窓を仰いだ。煙ごしに見るでもなく、曇り空の下で見るでもなく、朗らかな太陽の光の下で見る少年の横顔は、年相応にあどけなかった。  ハギヤはぽつりと呟いた。 「きっと、どっちのお父さんのことも大切なんだな、梓豪は」 「――は?」  梓豪にまっすぐ目を見つめられ、ハギヤは少し怯んだ。慌てて言葉を重ねる。 「あっいや、俺はさ、自分の両親のこと全く知らないから、知ったようなことは言えないんだけど。物心ついたときには施設にいたから。施設では番号で呼ばれていたし、親にもらった名前も知らない」  梓豪が眉をひそめた。 「番号だと?」 「うん、まあまともな施設ではなくてね。そこにいたときは、まともじゃないなんてちっともわかってなかったけど……だから何ていうか、血の繋がりとか、義理の親子関係さえあんまりわからないんだけど、梓豪は実のお父さんのことも大切にしているし、徳華さんのこともそうなんじゃないかなって思ったんだ、話を聞いていて」  話しているうちに落ち着きを取り戻したハギヤの声を聞きながら、梓豪は強くうなずいた。 「尊敬はしている。徳華さんは……阿爸は、色んな人の暮らしを守ってるんだ。見ただろ? ここにはガキや爺さん婆さんも多く暮らしているんだ」 「うん、正直驚いた。無法地帯だと噂されてたから、東龍慶にもそういう、堅気? の人たちがいるなんて思わなかった。九龍城ももしかしたらそうだったのかな」 「九龍城も昔は結構荒れていたらしいが、住んでる奴らの努力で変わっていったんだ。学校もあれば病院もある。無免許といっても、それは香港がイギリス領だったときに中国の免許を持っていたってだけで、基本は知識も腕も確かな医者ばかりだった。工場だっていっぱいあるし、髪切るところだってある。魔窟だなんだと呼ばれているが、九龍城はそういうところだった……って、阿爸は言ってた。だから、ここもそうしたんだ」  子供のはしゃぎまわる声や、和やかに談笑をする声が近づいては遠ざかる。それとは裏腹に、梓豪の顔は険しくなった。 「九龍城は、最終的にはぶっ壊された。他に行く場所のない奴も大勢いた。阿爸はそういう奴らを集めて、もう一度俺たちの九龍城を作ろうって言って、東龍慶を治め始めたんだ」  梓豪の瞳が強い光を帯びた。 「俺も俺の爸爸も、行き場のない奴らだった。それで阿爸に救われた。だから俺は少しでも、阿爸の役に立ちてえんだ」  自分が夢中になって喋っていたことに、梓豪ははたと気づいた。罰の悪そうな顔をして、横目でハギヤを見る。ハギヤは優しい目で、少年を見つめ返している。  梓豪は咳払いをした。 「……お前はどうなんだよ。さっきお前、親につけられた名前も知らないし、施設では番号で呼ばれていたって言ったよな。じゃあその、今名乗ってる名前って何なんだよ」 「ああこれはね、施設にいるときにシスイにつけてもらったんだよ」 「お前たち、どっちも同じ施設の出身なのか?」 「うん。番号じゃ味気ないよねって、施設の子たちの間でもそういう話になったんだ。それでお互いに名付け親になって、おれの名前はシスイがつけてくれたんだよ」  梓豪はシスイを指差し、歯切れの悪い口調で言った。 「じゃあ――そいつの名前は」 「ああうん、もちろんおれが……」  察して顔をしかめた梓豪を見て、ハギヤも昨日のことを思い出したらしく、慌てて口をつぐんだ。  シスイの名前をもじって嗤った梓豪。名前を侮辱されていきり立ったシスイ。シスイは自分のためだけに怒ったのではなかった。隣にいる名付け親のために、彼女は引かなかったのだ。  シスイは腕を組んだまま、黙って横を向いている。梓豪はうつむいて後頭部を掻いた。  ハギヤはまた二人の間に落ちた沈黙を感じて、明るい調子でとりなそうとした。 「い、いや、別におれはそんなに気にしてないから……」 「――おや、梓梓じゃないですか!」  まさしく天の助けか、教会に入ってきた人物が、梓豪を見て声をかけた。
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