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二〇三〇年春、香港。
東龍慶は、九龍島東部に位置する小さな都市である。英語ではイースト・ロンヒン、広東語ではトゥンロンヒンと発音される。
昼間コツコツと積み上げた価値観と倫理観を、有耶無耶のうちに煙にまいていく夜の街としての側面と、ほとんど普通話話者がおらず訛りの強い広東語が主に用いられるという排他的な側面がよく知られているが、東龍慶には知る人ぞ知る第三の顔がある。
それが街の中央部、洪星大道から区画を一つ挟んだ場所に佇む、超高密度のコンクリート高層建築群だった。ペンシルビルを彷彿とさせる作りの建物が、互いに寄り添い溶け合ってできたような立方体の建築群は、規模こそ小さいものの、以前この九龍島を一部の界隈で有名にせしめたとあるスラム街を思い出させずにはいられない。
『東洋のカスパ』とも呼ばれた無法地帯の魔窟――九龍城。
一九九五年に解体されたはずの違法建築群は、現代になってどういうからくりか、縮小された形で蘇り、東龍慶は第二の九龍城の名を欲しいままにしている。
そして、つい一週間前の四月六日のことだった。ハギヤとシスイがこれまで探してきた人物のうちの一人が、東龍慶に潜伏しているとの情報が入ったのは。
二人は準備もそこそこに香港へ飛んだ。普通話と英語なら日常会話程度が可能なものの、広東語はどちらもリスニングは何とかできる程度、スピーキングは簡単なものしか話せない。広東語が主流のこの街で、苦労しながら情報をたどり、ようやく東龍慶医療研究中心まで行き着く頃には、街は夜の顔を露わにしていた。
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