第十章

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 エミリーは牧師に伴われ、落ち着くまで教会にいるために雲嵐広場の方へ歩いていった。その背中を見送り、ハギヤが自分の顎に軽く手を当てた。 「時間に問題はないな。おれたちに電話をかけたのは、ちゃんと本人だったんだろうね。声に違和感もなかったし」  シスイが自分の腰に両手を当てた。 「ハギヤに連絡をした後、ここで殺されたか、違う場所で殺された後引きずられてきたか」 「問題はなぜ、誰に殺されたか、かな?」 「それといつ殺されたか、だ。ここは自分たちが徳華に会った場所にほど近い。オリヴァーはもしかしたら、本当に挟み撃ちするつもりだったのかもしれない」 「オリヴァー自身は本当に徳華を追ってて、電話をかけ終えた直後に撃たれたってこと?」 「そう。オリヴァーは利用されていたに過ぎず、役目が終わったから口封じをされた……ということも考えられる。殺した人間にとって、こんなに早く発見されるのは誤算だろうがな」  二人の淀みない会話が途切れた直後、梓豪が口を挟んだ。 「額を撃つのは、俺たちのやり方だ」  シスイが冷徹な目を梓豪に向けた。 「お前たちマフィアの仕業に見せかけて、内紛を誘っているかもしれないぞ」  梓豪の組織を揺らすために、暗躍している部外の人間がいるかもしれないということだ。  梓豪はそれを聞いて、歯を食いしばった。 「……だからってこんな……」  ここで怒ったら、敵の思うつぼだ。そう思っても、鎮まる気配はなかった。落ち着くために、梓豪は二人から少し離れて、壁と向かい合った。  徳華を狙うのも、自分を狙うのもいい。覚悟はしている。裏社会に生きている限りは、生命の危険は常に隣り合わせなのだから。  けれど、無実の人々を巻き込まれるのには、梓豪にとって強い嫌悪感があった。この建築群で暮らしている人々の安全を脅かすようなことは、絶対に許したくない。  梓豪の頭に、自分の原点とも思える記憶が、ふと蘇った。  梓豪が徳華の元に引き取られたばかりの頃、徳華はまだ六歳ほどだった梓豪を最上階に一人だけ招き入れ、夜景を見せてくれたことがあった。  徳華は梓豪を自身の膝の上へ、横向きに乗せた。彼が幼い子供扱いを梓豪にしたのは、後にも先にもあれっきりである。  ステレオで女性シンガーの美しい歌声を流しながら、徳華は優しい声で聞いた。 『お前が今までどう暮らしていたか、教えてくれないか』  梓豪は緊張しながら、公園で遊んだことや、教会の集まりの話をした。まだ広東語はたどたどしいものだったが、徳華が口を挟むことなく、うなずきながら、微笑んで話を聞いてくれるので、梓豪の口はどんどん軽くなった。  自分の将来に悩んでいる紅紅のことや、旨い料理屋の話、鳩レースに使う鳩を屋上で大量に飼っている通称「ハト伯伯(ボーボー)(おじさん)」のこと、口うるさいけどいつも飴を一つ分けてくれる老婆のこと……。  死んだばかりの父のことを思い出し、幼い梓豪は話しながら涙ぐんだ。  徳華は梓豪の頭を撫でた。 『お前と、お前の爸爸は、あそこで幸せに暮らせたか』  梓豪がうなずくと、徳華は目を伏せて続ける。 『俺はな、梓豪。お前を引き取るか、知ってる奴に預けるか、ちょっと悩んでたんだ。でもお前があの場所を愛してくれていると知った今は、お前に、ここにいてほしいと思っている』  梓豪は、徳華とは今まで、梓豪の父と三人で何度も会ったことがあった。かっこいいけど怖い虎のような目をしたおじちゃんだと、少年はずっと思っていたが、今改めて間近で見る徳華の顔は、今までよりずっとやつれて見えた。 『苦労をさせる。危ないこともさせる。嫌なものもたくさん見る。俺一人が甘やかすのは、これが最後になるだろう。だが、血よりも濃い繋がりはたんまり出来るぜ。今度はお前が、お前の暮らしたあの街を守るんだ。皆と一緒にな』  低く響く徳華の声を、梓豪は黙って聞いていた。  梓豪は徳華の職を知っていた。徳華は昔警察にいて、若くして相当上り詰めたのに、ある日突然マフィアになって街づくりを始めた、そう父は何度も話してくれた。  今の徳華の目は、虎というよりも、いつも夜に見かける野良猫のようだった。暖を取りたくて、家の窓に飛び乗っては、窓を開けてくれるのをじっと待っているような。 『梓豪。俺の息子にならないか』  梓豪は、男の顔をじっと見つめた。なんだか今なら、ちょっとくらいワガママを言っても許されるような気がした。  梓豪は承諾した。そしてすかさず「紅紅も連れてきていいなら、なってもいいよ」と条件をつけた。  徳華は呆気にとられてから、のけぞって呵々大笑した。梓豪は膝から落ちそうになって、慌てて徳華に抱きついた。徳華も梓豪を力強く抱きしめた。知らない煙の匂いに、父愛用の煙草の香りが一匙ぶん、混ざっているような気がした。 『こりゃあ大物になるな、お前は』  それ以来、紅紅はずっと梓豪の部下だ。
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