第一章

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 東龍慶医療研究中心(トゥンロンヒンイリュウインカウユンサム)の室内は、かなり荒らされていた。散乱した書類が床にも卓上にも広がり、土足の跡が荒々しく付けられている。  大層な名前の割には小ぢんまりした施設で、布張りの長椅子が二つ並ぶ受付の他には奥に部屋が二つしかない。家具の種類から見て事務所と研究室といった風情で、研究室らしき部屋は奥行きのある広い空間だった。  二人は受付を軽く見回した後、先に事務所の方に足を踏み入れた。  スチールの小さな机が四つ、顔を突き合わせるように組み合わされた奥には、一際大きな机が置いてあった。椅子は倒れ、引き出しは端から開け放たれ、円筒に手足と頭のついた清掃ロボットは無残に転がされている。  嵌め殺しの窓からは真っ赤な光が射し込んでいた。これも看板の明かりだろうか。  机上の書類を手に取り、ハギヤが呟いた。 「日本語の書類だ」  二人が探しているのは日本人だ。東龍慶に日本の企業はほぼ参入していないので、宣伝以外で日本語が使われていること自体珍しい。いちいち言葉を交わして確認せずとも、二人共ここに目的の人物がいた確率が高いことを感じ取っていた。  もう一つの部屋の方にも行ってみると、こちらの荒れ様は最も酷かった。  なにせ血痕がそこかしこにあったのである。鉄の棒や電線、直方体の巨大な機械や人型のロボットなどが積まれている無機質な部屋に、蛇がのたくったような有機物の赤い痕跡が強烈に染み付いて、脂がぬらぬらと光っていた。  血痕はあっても死体が一体もないというのが不気味だ。この量の血が全て同じ人間のものとは思えない。  床の血を器用に避けながら歩いていたシスイは、壁の一点に何か血文字が書かれているのに気づいて、近寄っていった。  乱れかすれた血文字は、広東語で書かれている。シスイが日本語に直して読み上げた。 「……『梓梓(ズーズー)、気をつけて』」  ハギヤも近づいてシスイの頭の上から覗き込む。 「あだ名かな」 「おそらく」  香港では、名前のうち一文字を取り出して二度繰り返したり、前に『(シャオ)』という字を付けてあだ名を作ったりすることがある。他に例えば目上の男性を示すときに兄を表す「(ゴー)」という字を後続させることも多い。  殺傷現場であろう部屋に残された警告の血文字。梓梓と呼ばれる謎の人物。  探している人物は、一体どこに行ったのか。何者かに殺されてしまったのか……。  血文字を見つめていた二人は、その時ふと、微かな足音を聞いて振り返った。  一瞬遅く、訛りのある広東語が外から聞こえた。 「誰だ」 尻ポケットに手を添えて姿勢を低くする小柄な男が、建物の入口に立っている。  深緑色のTシャツに、ジーンズというラフな格好の男だ。三十代と思しき細面の狐顔は警戒を隠そうともしない。男が出入り口に陣取っているので、退路は完全に塞がれていた。  二人は、動かずに男を観察している。直線距離にして約十五メートル。発砲されたときの障害物として、研究室の入り口の壁が使える。  男は沈黙する二人に対して、鋭く言い募った。 「ダッグヮのところの者か? なら説明しろ、この有様は一体どういうことだ」  知らない名前を聞いたハギヤは、咄嗟に広東語で否定した。 「違う。おれたちは無関係だ」  男は面食らった顔をし、一歩後ずさる。ハギヤはさらに言った。 「ここで何があったのか、おれたちも知りたい」  男はまだ二人から視線を外さない。彼が背後で手にしているのは、短刀か拳銃か。深く落とされた腰と重心を支えるために開かれた足は、彼が手練であることを教えている。  湿った重い空気が、三人の間に確かな質感を持って降りる。  す、と息を吸う音が聞こえた。シスイだった。 「自分たちはよそ者(ストレンジャー)だ。お前の言うやつとは何も関係がない」  よそ者を強調するためか、使用しているのは英語である。  ハギヤはいっそ両手でも挙げてみようかと考えていた。ここでこの謎の男と争うのはどう考えても得策ではない。友好的に振る舞い、情報をもらいに行ったほうが良さそうだ。  だが、男が先走ったときが心配だった。シスイは性格と慣習上、相手を戦闘不能にするまで手を緩めない。情報源を殺しはしないだろうが、この場所の血痕を増やすくらいのことはやらかすだろう。ハギヤとしては、無用な戦闘は避けたかった。  男を説得するのが先か、隣の相棒を説得するのが先か……などとハギヤが考えていると、男がため息をついて、ポケットから手を離した。 「……随分と綺麗な英語だな。懐かしい」  広東語よりもいくらか話しやすそうな英語が、男の唇から滑り出た。
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