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東龍慶医療研究中心に目ぼしい証拠が残っていないことを確認すると、三人は飲食店である坤記小菜に場所を移した。
行きつけの店だという男は「隠れ家的名店」と評したが、要はよその人間なら見向きもしないような小汚い店なのだった。青いタイル張りの床はあちこちが剥がれ、机には拭っても取れないべたつきが付着している。茶色に変色して元の色合いの見当もつかないような扇風機が、店の中央で唸りながら首を振っていた。
店員が無表情にメニューを出してくると、男は顔をしかめて押し戻し、広東語で言った。
「おいおい、俺からもふんだくる気かよ。あっちを出せ」
現地人用のメニューを引きずり出させ、男は慣れた様子で料理を注文する。店員が引っ込むと、男は卓に片肘をつき、今度は広東語の単語が混じった英語を口にした。
「香港人の顔じゃないからな、お前さんたちは。日本人か?」
「そうだよ」
ハギヤも英語で応じた。懐の偽造パスポートは日本国籍なので間違ってはいない。
「お前は日本人顔だよな。そっちの小姐(娘さん)は?」
「お母さんがアメリカ人で、お父さんが日本人。目が海の色でしょ」
でたらめの出自である。だがハギヤは穏やかな調子で話し切ると、首を横に傾けた。
「そっちは?」
「シンガポール。この街で過ごした時間のほうが長いがな」
男は苦笑いをしてみせる。
「俺のことはオリヴァーと呼んでくれ、日本人」
香港では英語のニックネームで呼ぶことも多い。オリヴァーもこの国で長く過ごしているなら、繁体字で記載する名も持っているはずだが、そちらは口にしなかった。
「おれはハギヤだ。こっちはシスイ」
オリヴァーはうなずいて、ハギヤと裏腹に無口を貫くシスイをちらと見る。
ハギヤは何か聞かれる前に口火を切った。
「仕事の話をしよう。オリヴァー、さっき言ってた……ダッグヮとは誰だ?」
「ここ一帯を仕切るマフィアのボスだ。黎徳華、身内贔屓の陰気な野郎さ」
オリヴァーは軽く答える。ハギヤは続けて聞いた。
「医療研究中心は、徳華の手の者がやったと思ってるのか?」
「ありゃ堅気の人間がやることじゃねえさ。お前さんたちも見たろ」
それに、とオリヴァーは語調を強める。
「俺は数日前に、徳華自身がフィオナを探してたことを知ってるんだ」
一瞬、ハギヤとシスイの間の空気が張り詰めた。
フィオナ。それが探している人物の偽名だということくらいは、二人も突き止めている。彼女が潜伏していると聞いて、二人は得体の知れないこの東龍慶を訪れたのだ。
ハギヤは一度目を伏せてから、静かにオリヴァーの顔を見つめ返した。
「――おれたちも、そのフィオナって人を探しに来たんだ」
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