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午後の稽古と夕食の後、ビクトルは私服に着替えた。
今年、一緒に入門した2人と一緒に出かけた。夜間学校へ通うのだ。
久礼井親方の命令である。
「自分の最高位は幕下まで、と思うなら行かなくて良い。が、もっと上へ、三役や大関を狙う気があるなら、しっかり頭も鍛えるべきだ」
反論の余地は無かった。
勉強が苦手だから、相撲を選んだはずだが。しっかり学問を積まねば、高位の関取にはなれないらしい。
「大関や横綱には、恐ろしく記憶力の良い人達が多いらしいぜ。数年前の取り組みでも、録画したビデオのように土俵で再現できるとか」
「上位力士はマスコミ対応も必要だよな。どすこい、だけじゃあインタビューにならない」
笑いながら夜の街を行った。残念にも、色気のある街とは逆の方角だ。
学校の授業は退屈だ。テレビのワイドショーでタレントの雑談を聞くよりは、系統立った日本語を耳に入れるのは心地良い。
なにより、年代や職業の違う同級生と会うのは楽しい。
ビクトルのとなりの席は、菓子屋の平野義巳。洋菓子店の跡継ぎ息子らしい。学業を二の次にして、昼は菓子職人の修行を優先している。ノートには菓子のレシピがびっしり書き込まれていた。
洋菓子職人にはスポンジをこねる体力が必要と、筋トレにも精を出している。首や肩の筋肉は新米の相撲取りより大きい。
授業が終わり、静かになった夜の街を帰る。
ぐう・・・腹が鳴った。
相撲取りは十両にならないと給料が出ない。それまでは親方から小遣いをもらう程度。協会から部屋に新人のための金は出ているけれど、毎日の食費や光熱費、稽古の廻しや浴衣で消えてしまう。
平野がビクトルの肩をたたいた。
「ちょっと待ってくれや」
そう言って、平野は家に入った。菓子店の前である。
冷えた風の中で待つ。
「お待たせ」
両手に大きなビニール袋を持って出て来た。中身は・・・ケーキの端切れだ。つぶれたシュークリームとか、一定の確率で売り物にならない規格外品が出るらしい。
「見かけは悪いが、味は平野菓子店のお墨付きだよ」
ビクトルは袋を開く。甘い香りが鼻先に広がった。
丸いのを手に取りだした。ロールケーキの両端を切り落としたやつ。チョコレート色のスポンジがとぐろを巻き、クリームが白い渦巻きになっている。
部屋に帰るまで待てない。路上で口に入れた。
「うまいっ!」
「横綱に出世したら、うちの宣伝をよろしくな」
「平野菓子店のケーキの切れ端は最高だ!」
「切れ端は宣伝しないでくれ」
平野は首を傾げて笑った。
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