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3.

 ビクトルは3階の窓を開け、夜明けの空気を吸った。択捉島の冷たく澄んだ空気は遠くなった。  まだ春のはずなのに、東京の両国界隈は真夏のような湿気が肌に貼り付く。  ビクトルは札幌の中学に通っていた。早々に挫折を味わう。聞き語りは別として、表音文字と表意文字が混在する日本語の文章は難しい。  去年、相撲の札幌巡業があった。そこで久礼井親方にスカウトされた。択捉島に帰るためには金が必要だ。卒業と同時にスタルヒン家を出て、相撲部屋に就職を決めた。  昨日の冷えた茶を飲み、トイレを済ますと、1階の稽古場へ降りる。  今日も1番乗りだ。  窓を開けて、空気を入れ換え。  朝の風が稽古場に吹き込んだ。  ビクトルは両足を広げ、ひざを曲げて腰を落とす。体を前後に左右へ揺らす。  兄のイワンがクオータースクワットと呼んだ運動だ。揺れる船の上の状態、波で揺れる甲板に対して頭の水平を保つ。地面は揺れないので、腰を揺らして船の上を再現する。  初めは小さく揺らし、少しずつ揺らすのを大きくしてゆく。両足裏を甲板に密着させ、決して片足が浮かないようにする、これが重要。大げさに手を振りながらするので、踊りと間違える人もいる。太極拳かと言う人もいた。  5分もやれば、体の芯が温まってきた。  ついでに、また尿意も来る。朝、2度目のトイレだ。  寝ている間にたまった尿ではない。朝の運動で血行が促進され、腎臓が活発に動いた結果だ。  稽古場にもどると、玄関に人が着た。 「おはよう」  十勝嶽関が大きな体を揺らして現れた。久礼井部屋の筆頭力士、前頭二枚目だ。体重は162キロ、ビクトルの倍もある。今年、30才、力士として最も体が充実する時期。来場所は三役を狙っている。近くのマンションに妻子と住んで、通いの関取だ。 「ビクトル、たのむぜ」 「はい」  簡単にあいさつして、十勝嶽関は裸になった。  ビクトルは廻しを取り、大きな腹に巻いていく。  相撲取りに付け人がいる理由が、この締め込みだ。廻しは1人で締められない。必ず補助する者が要る。関取には2人付くのが慣例。横綱ともなれば、4人以上付く場合もある。  腰骨にかけて、しっかりと締めていく。本場所では、廻しがゆるんで落ちたら負けとなる。勇み足以上に恥ずかしい負けである。落ちる前に、行司が『廻し待った』をかけて締め直す場面も、年に何度か起きる。  相手の廻しがほどけても勝ちは勝ちだけど、相手に恥をかかせての勝ちは・・・汚い勝ち方。テレビ時代、あってはならない決着だ。故意にケガをさせるのと同等に悪い。  そうこうする内に、皆が起きてきた。  ビクトルも同僚に手伝ってもらい、腰に廻しを締め込んだ。  久礼井部屋には3人の関取がいる。前頭七枚目の富良王関、十両の十三枚目の奈世楼関も現れ、これで全員が集まった。  皆で土俵を囲み、いっち、にい、かけ声で四股を踏む。  次は、腰を落としてすり足で進む。土俵を囲んで同じ方を向き、右回りで行く。十勝嶽関が声をかけ、今度は左回りで行く。  股関節やひざに疲れがたまると、次第に腰が高くなる。どこまで腰を低くかまえて行けるか、体の柔軟性が必要。  すり足はビクトルの得意である。波に濡れて揺れる船の甲板を進むには、足を浮かせてはならない。腰を落として、足を滑らせるように歩く。
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