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ふっと意識が浮上した。視界を占領する黒と赤。やけに低い視線。固い何かが、頬に当たっている。全身に力が入らない。指先の感覚は全く無いのに、全身を支配する熱い感覚だけは明確に感じている。
(……どう、したん……だ、っ、け…)
腕を動かして身体を起こそうと試みるけれと、何故だか身動ぎひとつ出来なかった。次の瞬間、お腹の奥から何かがせり上がってくる。不快なその感覚を堪えることも出来ず、せり上がってきたモノをごぽりと音を立てて口の中から吐き出した。
喉が痛い。視界に映る黒が、徐々に赤く侵食されていく。じわりじわりと、真っ赤な血溜まりが広がっていく。
(あ……わ、たし、くるまに、)
走馬燈のように脳裏を駆け巡るのは、愛おしい夫の、雪のように真っ白なタキシードを身に纏った凛々しい横顔。追憶の先で物理的現状を把握しようと眼球を動かしていく。頬に当たっている固い感覚が地べたということを理解すると同時に、愛おしい人で溢れ返っていた脳内の走馬燈が、数分前の――自宅近くのコンビニを目指し歩道を歩いていた私に向かって車が突っ込んでくる光景へと、急速に上書きされていく。
「聞こえますか!? もうすぐ救急車来ますからね!!」
焦ったような大声が頭上から落ちてくるけれど、小さく吐息を溢すだけの生体反応しか示せない。遠くにサイレンの音がしているような気がする。口の中は鉄の味でいっぱいだ。ヒリヒリと痛む喉の奥をどろりとした痰が渦巻いている。直後、ゴフッと音を立ててふたたび血の塊を吐き出した。
地面にうつ伏せで突っ伏している私の身体は、どうやら全身を苛む鮮明な痛みを熱と勘違いしているらしい。それもそうだろう、突っ込んできた車体の衝撃で、私の身体は免許更新時に見せられる啓蒙動画の事故例のような、見事な放物線を描いて弾かれたのだから。
目の前の赤い海に、ぷかぷかと一見優雅に浮かぶ血泡。自分が置かれた現状を理解した瞬間、急速に意識が遠のいていく。
(……つくり、おき…とちゅ、な、のに)
明日からの新年度の仕事に向けて、残業が続いても大丈夫なようにとやり始めた作り置き料理の途中で……醤油を切らしていることに気がついて、自宅近くのコンビニに買い出しに行こうとして。
(こー……ちゃ……)
肌感覚が失くなっていく。滲んだ意識が、ゆっくりと沈んでいく。視界がどんどん黒く塗りつぶされていく。
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