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八 素直な色
「君。人事の件で相談があるんだが」
「なんでしょうか」
「そのな、知り合いで仕事を探しているものがいて、うちの電話交換手をだな」
「ああ。確かに求人中です」
人事担当の男は事務的に答えた。
「結婚して辞めたものがいまして。その後釜がまだ見つかっていません」
「そうか。では、まず面接に向かわせるよ」
特別扱いは雪子に怒られる。紹介に留めた哲嗣。この日の夕刻、下屋敷でこれを伝えた。
「よかった。じゃ、まず、履歴書ですね」
「書けるのか」
「……これです」
持ってきた半紙の書。細い字は震えるほど達筆だった。
「これ?君が?」
「おかしいですか?」
「いや。これでいい。しかし、うまいもんだな」
箇条書きの証明書。しかし。雪子はまだ納得していなかった。
「お兄ちゃんの方が字は上手なんです。いつも下手って言われていたので」
「これで?真君は大したもんだな」
感心しきりの哲嗣。雪子は食後のお茶を出した。
「それよりも。お兄ちゃんにはその後、意地悪とかないですか」
「ないよ」
嘘である。雪子に心配かけたくない哲嗣。すましてお茶を飲んだ。
「おかしいです。哲嗣さんの眉がピクッとなったわ」
「そう?」
「またです。哲嗣さんは誤魔化そうとすると、いつも」
「こら」
哲嗣は彼女の手首を掴んだ。
「俺の秘密を言うんじゃない」
「だって。本当だから」
哲嗣はそっと抱きしめた。
「……真君は大丈夫だよ。心配しなくていい」
「本当に?お手紙も書けないから心配で」
見上げる瞳。兄を心配する彼女。これが自分に対する想いなら、どんなに嬉しいだろう。哲嗣は笑顔でこれをかき消した。
「今度、会ってくるよ。様子を見てくるから、心配するな」
「わかりました。哲嗣さん、いつもありがとう」
「礼など」
……まだ遠慮を。
他人行儀に思えた雪子の態度。哲嗣は悲しくなった。そして彼女を解いた。
「今夜はもう帰る。君も早く休め」
「は、はい」
腹立ちのまま下屋敷を去った哲嗣。自宅でも彼女の悲しい顔が消えずにいた。
そして雪子の面接の日となった。テニスに来ていた男性社員はこの話を聞きつけていた。
「副社長。今日、彼女、来るんですよね」
「そうだったかな」
会議を終え、閉じたドア。その立ち話にそっけない態度。社員は気づかず無神経に話を続けた。
「彼女が入社したら、楽しいですよね。副社長の親戚だし」
「……ちょっと用を思い出した。社内に入るので」
哲嗣は面接をしている人事室に来てしまった。
ドアの向こう。雪子の声がしてきた。途切れ途切れの説明。盗み聞きの哲嗣。身悶えた。
……成績は優秀なんだ。それでいいじゃないか。
念じる哲嗣。しかし雪子が親の話をしているのが聞こえた。
……親が死んだのは仕方がないだろう。そんなこと言ったら入社してから親を亡くす者はどうするんだ。
お次はなんと雪子の身長や体重を聞いている様子。これには哲嗣の我慢の限界を超えた。彼はいきなりドアを開けた。
「おい、なんてことを聞くんだ!」
「副社長?いらしたんですか」
「雪子ちゃんは答える必要はない」
「どうしてここにいるの?」
驚く雪子。しかし哲嗣は彼女の隣にムッとした顔で座った。
「おい、君。彼女は俺の知り合いだ。それでいいだろう。採用だ」
「副社長のお知り合い?だったら、もうそれで」
「哲嗣さん……私は採用の話だったのよ」
「え」
人事担当者は額の汗を拭いた。
「はい。今は制服のサイズの確認を」
「え。じゃ、身長とかは」
「私は背が大きいから。制服の心配をしてくれていたのよ」
「そうか?……では、そのように」
恥ずかしさを隠すように哲嗣はそのまま退室した。雪子も人事担当者もポカーンとその背を見ていた。
◇◇◇
「瀧川さん。採用になりました」
「さすが雪子様。瀧川はそうなると確信しておりました」
「ありがとうございます。よかった」
帰ってきた雪子の顔。瀧川はそっとお茶を出した。
「自立したいとおっしゃっていましたものね。それは、やはり、お兄様を待つためですか」
「それもありますけど。私、兄や哲嗣さんに、甘えてばかりで」
陰りのある顔。瀧川は尋ねた。
「雪子さん。人は支え合って暮らしているのですよ。お金を稼ぐだけが自立とは言えません」
「でも、実際は頼りにしています。私は依存したくありません」
「依存ですか」
賢い娘。瀧川はため息をついた。
「では。子育てをしている主婦は、稼ぎがないですね。これも依存ですか」
「それは、家族のために」
「親の介護をしている人。夫に尽くしている人。これは確かに生産性はないですね。これも依存ですか」
「……」
老齢の使用人。瀧川は語り出した。
「雪子さん。家政婦を雇ったら賃金を払いますよね。子守や看護師も。庭の掃除、服の繕い、みんなその労働に対して、代金を払います」
「そうですね」
「主婦はこれらを一人でやっているんです。すごいと思いませんか?」
瀧川もお茶を飲んだ。
「男性は何もわかっていませんがね、色んな仕事をしてきた私は、子育てが一番難しい仕事と思います。何せ命がかかっていますもの」
彼女は遠くを見た。
「私も若い頃、貧乏だったので必死になんでもやりました。それは今でも後悔していませんが、失ったものもあるんです」
「何をですか」
「時間ですよ」
雪子はごくと息をのんだ。
「友人とお話ししたり。おしゃれをしたり。何もできませんでした。この歳になって時間もお金もありますけど、今更そんなことをしても、楽しくもなんともない」
……亡くなったお母さんと、同じ事を言ってるわ。
雪子は思わず俯いた。
「お金は確かに働いた分だけくれるので、評価された気分になります。でもですね。世の中には、お金で評価できない、尊いものがあります」
「お金で評価できない尊いもの」
「そう。相手を思いやる心、愛する人を大切にする心。これらはお金で買えないです。これらを得ることは働くことよりも難しいのです」
日頃ふざけている瀧川の真顔。雪子は黙って見つめた。
「お兄様や哲嗣さんが、貴女を大切にしてくれるのは、そう言う気持ちです。なのに必死に働いてそれを拒むのは、勿体無いですね」
「では私はどうすれば」
「……愛には愛を。雪子さんにはそれができると瀧川は思いますよ」
最後は微笑んだ瀧川。雪子に夕飯を出してくれた。この夜、彼女は自室にて考え込んでいた。
……確かに。私はお金がないと、何もできないと思っていたわ。
しかし。思い返す兄との暮らし。貧しくとも楽しい暮らしであった。あの時の自分は自分のせいで兄は犠牲の日々を送っていたと思っていた。
……でも。私も楽しかったように、もしかしたらお兄ちゃん、楽しかったのかな。
就職の内定の夜。複雑な思いの雪子。天井のシミを見つめていた。それでも疲れていつの間にか寝ていた。
翌朝。出社前に哲嗣が下屋敷に顔を出した。
「決まったそうだな」
「はい。あの、哲嗣さん」
仕事が決まったら出て行こうとした自分。それは彼の邪魔にならないため。兄を待つため。皆のためになると思っていた。
しかし本心は違っていた。
「どうした」
「……私。お仕事が決まってお給料が出たら、ここにいてはいけないって思っていたんですけど」
「……」
まっすぐ自分を見つめる彼の視線。雪子はぎゅうと目を瞑った。
「でも、ここにおいて下さい。お家賃を払うので」
「……」
……やっぱりダメか。図々しいわよね。
思わず涙が出てきた雪子。くるりと背を向けた。
「ごめんなさい。今のは無しです」
「雪子ちゃん」
背後から抱きしめた哲嗣。彼女の頭の上で唸った。
「急に何を言い出すのかと思ったぞ。心臓に悪いぞ」
「哲嗣さん」
「ずっとここにいろ。いてくれないと困るんだ」
切ない声。雪子の目頭が熱くなった。
「君は犬養の娘だと気にしているが、俺はそんなことは関係ないと言ったはずだ」
「はい」
「だから。君も気にするな。君の前で俺はただの男だ。それを、それを忘れないでくれ」
「はい、わかりました」
やっと解かれた腕。涙顔の雪子は微笑んだ。
「さてと、朝飯はあるかな」
「はい。今朝もお粥で、ええと、お味噌味かな」
「それは食べないと?さ、いこう」
仲よく手を繋いだ二人。共に粥を食べた。
会話が弾む東の朝日の部屋。明るい空気に包まれていた。
『素直な色』完
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