一 最果ての思い

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一 最果ての思い

「おい!この家に室蘭の男が住んでいると聞いてきたんだが」 「私の事かな」 北の果て、サハリン。北海道オホーツク海の島。その国にある日本国の町、ロシアとの国境の敷香の町にやってきた一郎。玄関に出てきた男に尋ねた。 「君は新聞配達の男か。ここにうちの雪子はいないか」 「うちの雪子って。お宅、誰?」 「私は犬養一郎。議員の息子だ」 「議員……ああ、そうだった」 全てを知っている雪子の元同僚は澄まして答えた。 「来たけど、帰りました」 「へ。それはいつ」 「先週かな。でもどこに帰ったのはか知りませんよ」 「嘘をつけ!部屋を見せろ」 「あ」 一郎は怒りのまま部屋に上がった。奥の座敷に布団があった。一郎は布団をめくった。 「ひや」 「なんだ。婆さんか、くそ」 「おい、あんた警察呼ぶぞ」 「……うるさい、出て行くさ」 諦めた一郎。仲間と粗末な旅館に泊まった。夏。日が沈まない白夜の夜。北海道よりも低い草丈の原は冷涼の証。流れる川は手付かずのまま。北の外れの田舎町。数日も来ない連絡船を、悔しい思いで待っていた。 ◇◇◇ 「赤提灯か」 雪子が去った室蘭の真、これに慣れてきた彼。少しは独身気分を満喫しようと思い、駅前の飲み屋にやってきた。 「いらっしゃいませ。あら。新入りさん?」 「どうもっす」 「こちらこそ。それで、ビールでいいですか」 飲み屋の娘。気の良いイネ。本好きな真と話が合い会話が弾んだ。真はそんなにお酒が得意ではないが、独り身の食事の虚しさゆえ、この店に来るようになった。 「真さん。はい、塩辛」 「ありがとう。あと、焼き鳥ね」 「真さん。お店が終わったら相談があるの、待っていてくれる?」 「いいよ、暇だし」 そんな真。帰り道のイネから相談を受けた。 「知らない男に言い寄られているのか」 「うん。アパートの前に立っている日もあるの」 「怖いじゃないか。警察は?」 「すぐにきてくれないもの」 そこで真に送って欲しいとイネは言った。真は男としては貧弱。痩せて小柄である。そんな自分には用心棒は無理だと話した。 「いいの。いてくれるだけで。それに他の男の人は信用できないもの」 お願いと腕を組まれた真。満更でもなかった。 「まあ。一緒に帰るだけなら」 「嬉しい!じゃ帰ろう」 美人なイネ。飲み屋のマドンナ。そんな彼女と歩いているだけで真は気分がふわふわだった。 毎夜送るようになった真。紳士の彼は送るだけで何もしなかった。 雨の日も風の日も。できる限りイネを送り続けた。 そんなイネは真に過去の話をするようになった。真もまた話だした。 「苦労したんだね、それで?妹さんはどこに行ったの」 「俺は知らない。でもきっと平気さ」 「そうなのかな。私は会いたいって思っていると思うな」 平気だと話す真。しかしイネは雪子を探すように語っていた。 そんな中、彼が室蘭にやってきた。 「真君。仕事の帰りに話できるかな」 「はい!待ってます」 妹を守る哲嗣。久しぶりに雪子の話が聞ける真はワクワクしながら夕刻を待った。そして彼を自宅に招いた。 「すいません。男所帯で大した用意もできなくて」 「いいんだよ?俺はホテルに泊まるから」 哲嗣の話は幸せそうに暮らす妹の話だった。 「ははは。電話の交換手をしているんですか?俺も電話しようかな」 「するといいよ。佐藤は彼女だけだから」 「できるんですかね。あいつはそそっかしいから」 「……真君。話があるんだ」 哲嗣はスッと後ろに下がり、床に手をついた。 「何ですか」 「雪子ちゃんを、俺にくれないか」 「哲嗣さん……」 「好きなんだ。妻にしたい」 頭を下げる哲嗣。真は大きく息を吐いた。 そもそも。こうなることは真にはわかっていた。初めて会った二人の様子。引き合わせたのは自分。互いの素性を知らずに惹かれ合うあの目。 ……あの哲嗣さんが。俺に頭を。 真は哲嗣の肩を叩いた。 「顔をあげてください。ほら、哲嗣さん」 「ああ」 「雪子も承知しているんですよね」 哲嗣は顔をあげた。 「実はな。お母さんのお墓参りの時に、自分で報告したいと言っていたんだが。都合で、一緒に住むことになったから。俺から話させてもらった」 「都合とは」 「……彼女は人気が合って、その、目を離せないんだ」 「……」 正座の膝を掴む哲嗣。兄として妹の恋人を見つめていた。 「しかし誓うよ。ただ一緒にいるだけだ。君の許しもらえるまで今の関係だ」 「あなたがそこまで仰るなら。俺はいいです」 「本当かい」 ほっとした哲嗣。真は少し寂しかった。 「でも、あいつが俺に報告したいというなら。今の話はそれまでお預けしてやってください」 「わかった」 「俺からも報告があります。樺太からの連絡です」 一郎がこの家に雪子を探しに来た話。さらに真は敷香の町の友人からの一郎が来たという葉書を見せた。 哲嗣からは犬養と懇親会で会った話を交換した。 「犬養の親父が雪子の件を知らなかった?……じゃきっと一郎さんの仕業ですね」 「そんな力があるのかい」 「犬養に関する闇の仕事は、全部一郎さんなんです。気をつけてください」 「わかった。あのな。真君。その敷香の葉書はすぐに処分した方がいいぞ」 一郎の名が見える内容。真は葉書を手にとった。 「でも友人の葉書なので。後で返事を書いてから燃やします」 真は忘れないように仏壇に葉書を置いた。この時、時計を見た哲嗣。遅い時間になっていた。 「俺の方からはそんな感じで。あとはまた明日に」 哲嗣は室蘭営業所の車で自分でホテルに向かった。彼が帰った部屋。気がつくと仏壇に菓子が載っていた。 「お母さん……哲嗣さんが持ってきたのは函館の羊羹だ。きっと雪子が持たせたんだよな」 妹の結婚話。寂しい一郎。仏壇前で独り言を言い、この夜は寝た。 翌日。室蘭営業所で仕事をした哲嗣は函館に帰っていった。 真はまた飲み屋に顔を出した。イネに会いたかった。 イネもまた会いたかったと話した。この夜、真は寂しさを紛らすようにたくさん飲んだ。気がつけば自宅に帰っていた。 「頭が痛い……」 「真さん。お水飲む?」 「イネちゃん。どうしてここに」 休日の朝、真の家。イネは下着姿で台所から顔を出した。 「どうしてって。一緒にいたの忘れたの?」 「覚えてない……痛い?頭が」 「ほら、休んで。眠いんでしょう」 ……おかしい。体に力が入らない。 自宅であったため。真は再び眠ってしまった。 気がつけば夜になっていた。イネは帰った様子。誰もいない家に戻っていた。 スッキリしようと銭湯に行った真。風呂後はシャッキリした。そして明日の仕事の用意などして休んだ。 そして月曜日は多忙であったので、真は火曜日にイネの店に顔を出した。 「辞めた?イネちゃんが」 「こっちも急で困っているんだよ」 「そうでしたか」 「何でもさ。大金が入るって自慢してたよ、あの子」 店で何も食べなかった真。悪い予感がした。気がつけば走って帰ってきた。 玄関で吠えるタロウ。慌てて水をあげた彼は家に入った。 「どこだ、どこだ……ない、ない、確かに仏壇にしまったのに」 樺太からの手紙。あの葉書がどこにもない。 それと、仏壇に違和感があった。 「羊羹は、羊羹はどこに行った」 冷蔵庫のない家。彼は茶箪笥や台所を探した。ない。どこにもなかった。 この時、玄関から怒声がした。 「出てこい!真。よくも騙したな」 「こら!出てこい」 この声を最後まで聞かなかった真。窓から外に逃げていた。 「はあ、はあ」 「どこだ。探せ」 闇夜に隠れた真。小柄な身を隠し逃げていた。 財布もない。裸足の足。しかし逃げねば何をされるか分からなかった。 そして逃げてきたのはイネのアパートの近く。慣れた道のりを駆けて行った。 もしかしたらイネが匿ってくれるかもしれない。真はそう思った。 「はあはあ。あれは」 彼女の部屋。カーテンの隙間。そこには刺青が入った男の背中が見えた。 ……そういうことか。騙すつもりが騙されて。 「ははは。ふふふ」 「おい。ここにいたぞ」 「こら。手間をかけさせやがって」 捕まった真。チンピラ風の男達に乱暴にあった。殴られ蹴られ。血が噴き出た。この騒ぎ。アパートの住人が出てきた。そこにはイネがいた。タバコを吸う男に細肩を抱かれて見つめるイネは真っ赤な口紅で笑いながら真を見つめていた。 誰かが警察を呼んだのか、警官がやってきた。逃げた乱暴者たち。真だけが警察に調べられた。 ひどい怪我であったため病院で一晩手当を受けた真。翌朝、病院から職場に電話をして休暇を伝えた。 ……そうだ。哲嗣さんにも報告しないと。 暗記していた函館本社の電話。真は回した。 『はい。岩倉貿易会社函館本店、交換手、佐藤です』 「雪子か。俺だよ」 『お兄ちゃん?うわ、びっくりした』 懐かしい妹の声。真は涙を堪えた。 『どうしたの。電話なんか』 「あのな。俺だって社員なんだぞ。哲嗣さんに回してくれ」 『はい。あのね、お兄ちゃん。お盆に帰るからね』 一緒に過ごした日々。帰らぬ日々。妹は彼と幸せになる。自分はもう、してやれるのはこんなことくらい。腫れた目の真は切れた口元で笑った。 「わかったから、早くつないでくれ。お前、できるんだろうな」 『できますとも。じゃあね』 「ああ」 やがて繋がった電話。真は簡潔に伝えた。 樺太の手紙と函館土産の羊羹。これを盗まれた話。哲嗣は理解してくれた。 「俺は平気です。雪子を頼みます」 『わかった。君も何かあったらこっちに来ていいからな」 「お気持ちだけ。では」 真は無事だといい、電話を切った。 そして自宅に帰るとほっとした。 「タロウ、ただいま。よかった。火をつけられるかもしれないって思ったよ」 「オン!オン!」 「大丈夫だよ。会社は休むから」 殴られて終わりだろうと思った真。自宅が残って安堵していた。そして畳の上にゴロンとなった。 ……くそ。痛いな。 先程の雪子の声を思い出していた真。このまま痛みに耐えていた。 ……あいつ。澄ました声で。ふふふ。ちゃんとやってるじゃないか。 腫れた顔、血の味のする口の中。ぼうっとする頭の中。痛む足腰の真。 しかし妹の幸せそうな声を聞き、心は満たされていた。 一話「最果ての思い」完
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