七 渚のテニスコート

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七 渚のテニスコート

「雪子ちゃん。今日は何してたんだい」 「教会に行って。そして瀧川さんにお豆腐屋さんを教わりました」 「それでこの冷や奴か」 夕刻。仕事帰り岩倉下屋敷にやってきた哲嗣。上着を脱ぎ雪子の用意したお膳の前に座った。 一緒に用意した瀧川。いつもブスとした哲嗣のワクワク顔に、笑いを必死に堪えていた。 「それにしても哲嗣様。こんなに早いお帰りでよろしいのですか」 「これから忙しくなるので、早く帰れるうちはここに顔を出すつもりだ」 これを聞いた雪子は、彼の本職を思い出した。 ……そうだった。副社長さんだもの。私のことでお手間をかけさせるわけには行かないわ。 「哲嗣さん」 「なんだ」 「私の事でしたら心配しないで下さい」 「なぜそうなる」 「……お仕事は相談して決めるし。それに、瀧川さんがいるから寂しくないもの」 真顔の雪子。哲嗣は眉を顰めた。 「それは。俺に来るなと言うのか」 「おほん。瀧川は窓を閉めて参ります、はあ、どっこいしょっと……」 気を利かせて瀧川が下がった部屋。哲嗣は憮然としていた。 「迷惑か。俺が来ると」 哲嗣は箸を休めじっと雪子を見つめた。この熱い目。急に心臓を掴まれたようになった。 「迷惑なんて?無理して欲しくないだけです」 「嫌そうな顔をしている」 「そんなことない。誤解よ」 雪子は思わず、哲嗣に横に寄り、首を振った。 「私はただ。哲嗣さんが忙しいから、お体が心配で」 「俺は真君から君を預かったんだ。心配くらいさせてくれ」 哲嗣はその手を掴んだ。 「ダメか?」 雪子は観念したように哲嗣を見つめた。 「ダメじゃないです」 「嬉しそうじゃない」 「いいえ?嬉しいです。会えた方が、私だって嬉しいのに」 困り顔の雪子。哲嗣は思わず胸に抱き締めた。 ……なんて顔をするんだ。 からかうつもりがやりすぎてしまった哲嗣。真に受けた彼女が可愛らしく胸を打った。 「わかったよ。じゃあ、お代わり」 「え、もうですか?」 雪子に笑顔を見せた哲嗣。食後に会社の話をした。 「今度の休みにドライブに連れて行ってやろうと思っていたが。その日はあいにく、仕事関係者とテニスが入っていたんだ」 「テニスですか」 「雪子ちゃんは、テニスは?」 「父の接待で、少々」 桃色の華やかな小紋のお召しが愛らしい雪子。室蘭から出てきた時から着る上等な着物。こうして着ると名家のお嬢様の気品が溢れてならない。この可憐さ。哲嗣は目を細めていた。 ……普段着も綺麗だと思ったが、これは参った。 たおやかにお茶を出す白い手、指、桃色の爪。受け取った哲嗣は微笑んだ。 彼女を楽しませたい、ただ、そう思った。 「一緒にどうだ?うちの若い社員も来るんだ」 「そうですね……」 ……函館のことは何も知らないから、若い人に、仕事のお話を聞けるかも知れないわ。 「行きます!」 「よし。では、週末、迎えに来る」 こうしてこの週末の朝。哲嗣は雪子を迎えにきた。 「おはようございます。哲嗣さん」 「お、おはよう」 長い髪を白いリボンで一結びにした小さな顔。白いポロシャツにスポーツズボン。足元の白いシューズが光って見えた。 「晴れましたね」 「あ、ああ」 元気一杯の挨拶。雪子の眩しい笑顔。思わず哲嗣は汗が出てきた。 「ああ。その格好。似合っているよ」 「ありがとうございます。運動する時はいつもこの格好なんです」 そして瀧川から飲み物やタオルが入ったバッグを受け取った雪子。帽子を被った哲嗣が運転する助手席に座った。 「瀧川さん。行ってきます」 「はい。楽しんできて下さいませ」 手を振り見送ってくれた瀧川。しかし運転する哲嗣はどこか機嫌が悪かった。 「ねえ。どうされたんですか」 「別に」 首を捻る雪子。哲嗣の気持ちを知らずにいた。 ……今日は男性社員も来るんだった。これは、釘を刺しておかないと。 「哲嗣さん?」 「あのな。雪子ちゃん。今日は仕事関係者のテニスだ。あんまり自分の話をするなよ」 「はい」 「そうだな。君は俺の親戚にするか」 それなら他の男が気安く声をかけないだろう、と哲嗣は思った。 「了解しました。哲嗣さんこそ、怪我しないでね?」 「おっと。これは見くびられたもんだな」 こうして二人の車は海岸近くのテニスコートにやってきた。 「うわ?綺麗」 「新しいコートなんだ」 すでに到着していた若手社員たち。車から降りた哲嗣に挨拶をした。 「おはようございますって、その娘さんは?」 「……親戚の子だ。雪子ちゃん。挨拶を」 普段女っ気のない堅物男。その男が恥ずかしそうに紹介した女の子。白いリボンのポニーテールが揺れた。 「皆様。初めまして。親戚の雪子です。どうぞ、よろしく」 一同は思わず、静止した。その後、頬を染めて挨拶を返してくれた。 「哲嗣さん。私、何か、失礼しましたか?」 「気にするな。さあ。向こうに女子社員がいるから。行っておいで」 「はい」 元気よく駆け出した雪子。その後ろ姿を男子社員が哲嗣に問うた。 「副社長。あのお嬢さんは」 「俺の親戚だ。いいから、ほら!取引先の接待ということを忘れるな」 やがて続々と到着した車。降りてきたのは新規の取引相手である。懇親会のテニス。哲嗣は親睦を深めようとテニスを開催したのだった。 「いやいや哲嗣さん。先日はどうも」 「これはどうも。あの時は助かりました」 「いいえ。自分は貴方のお兄さんに助けていただいたことがあるので」 兄が横浜にて会社を設立した今、次期社長として哲嗣は仕事を進めていた。兄のような商才はないが、社員の話を広く聞き、有識者に教えを乞い、企業人として学んでいる最中だった。 「こちらこそ。今日はよろしくお願いましす。どうぞ、向こうのコートに」 「はい。それでは行ってきます」 迎える側として客に勧める哲嗣。接待が苦手であるが、良い雰囲気のテニス会。ボールが飛び交う中、彼は挨拶をし見渡しながら、雪子を探していた。 ……どこだ。もしかして、休んでいるのか。 コートで楽しむ女子。ベンチでおしゃべりしている女子。どこにも雪子がいない様子。思わず哲嗣は男性社員を捕まえた。 「おい。雪子ちゃんはどこだ」 「あ、副社長。彼女なら、あそこに」 「どこだ……あ」 コートの端。ボール拾いをしている女の子。それ!とカゴに投げ入れる仕草。それは楽しそうに集めていた。 「おい!なぜ玉拾いをさせているんだ」 「違いますよ?彼女、止めても聞かないんです。自分でやるって聞かないんです」 「……はあ」 呆れる目線の先。それそれ!とボールを集めた雪子。今度はベンチに休んだ客人に飲み物やタオルを渡していた。 唖然とする哲嗣。部下は申し訳なさそうに説明した。 「俺たち。一緒にテニスをしようって誘ったんですけど。自分はいいから。みなさんどうぞって」 「ここを頼む」 ボールが行き交うコート。それを無視した哲嗣。一直線で雪子を捕まえた。水場で彼女はバケツに水を入れていた。 「おい。何をしているんだ」 「何って……冷たいおしぼりを」 「あのな。ちょっとこっちに来い」 木陰に引っ張ってきた哲嗣。不思議顔の雪子にため息をついた。 「雪子ちゃん。俺はね。君に楽しんでもらおうと」 「楽しいですけど」 「そうじゃない!?あのな。君もテニスをしろ」 「私が?いいんです、別に」 ああと哲嗣は頭を抱えた。 ……接待だと思っているのか?全く。 彼女は父親の手伝いをしていたと真から聞いていたこと。哲嗣は今頃思い出した。 「あの……哲嗣さん」 「雪子ちゃん。いいか。今日は君がだね」 「あの人。さっきから呼んますけど」 「あ?どうもです……」 さあと背を押す雪子。哲嗣は仕方なく取引先の方へ走った。 ……さあ!哲嗣さんのために。お手伝いしないと。 日頃の感謝を込めた雪子。冷たい水でおしぼりを差し入れた後、接待係の方に向かった。 「私もお手伝いします」 「副社長の親戚の方?いいんですよ、ここは」 遠慮する女子社員達。雪子はぺこんと頭を下げ、仲間の輪に入っていった。 「いいんです。私、裏方の方が好きなんです」 「でも」 「本当に気にしないでください」 こうして彼らの手伝いで飲み物を運んでいた雪子。社員達の話を耳に挟んだ。 「まさかこんなに増えるなんて思わなかったし」 「今からだと間に合わないよ」 弱り顔。雪子は理由を尋ねた。するとこういう懇親会に不慣れだと話す女子社員達。お昼のサンドイッチが足りないと説明した。 「もうサンドイッチはここに届いているんですけど。でも、今日、予定外の家族を連れてきた人がたくさんいて」 「……私達の分をあげても、足りないんですね」 思案した雪子。不足分だけお弁当を買いに行くと言い出した。 「でも。みんなと違うのって、いいのかしら」 「パンが苦手な人もいますし。いざとなったら岩倉の社員さんがそれを食べればいいと思います」 「でも。近くにお弁当屋さんなんかないわ。どうしよう」 戸惑う女子社員。雪子は来る途中にお寿司屋さんがあったと話した。 「お稲荷さんとか干瓢巻きとか。お願いしてみましょうよ」 「でも。でも」 「……私、一緒に行きますよ。それに、時間はないです」 選挙の時はいつもこの役の雪子。財布係の女子社員と男性社員の運転でテニスコート近くの寿司屋にやってきた。 「ほら、雪子さん。暖簾がまだ出てないわ」 「無理じゃないのかな」 無理だと言う雰囲気。しかし雪子はめげない。 「開店前の方が他のお客さんがいないので話しやすいんですよ。すいませーん。ご主人はいますか?」 仕込みをしていた大将は、入ってきた雪子に驚いたが、岩倉貿易の名前と注文の数を聞いて作ってくれると話した。 「よかった。あの今日は暑いので、痛まないように酢を効かせて下さいね」 「あったり前だよ。俺を誰だと思ってるんだ?任せておきなよ、お姉ちゃん」 「ふふふ。お代は先に払います」 「あ?雪子さん。どうしよう。大きいお金しかないわ」 困る女子事務員。コートに戻ればお金は両替できるはず。雪子は少し考えた。 「大将、お釣りありますか?」 寿司を握る大将。ちらと時計を見た。 「いやいいよ。もうすぐ若い衆が来るから。お釣りと一緒に、テニスコートまで届けてやるよ」 「助かります。では。美味しいお寿司、待ってます」 「おう!」 暖簾をくぐって出てきた女子事務員と男性社員。先に車に乗る雪子におそろおそる口を開いた。 「なんか、すごいですね」 「そうですか?」 「あの。どうして先にお金を払ったんですか。品を受け取ってからの方が確実ですよね」 雪子は平気な顔でドアを閉めた。 「いきなりの注文だったので、その方が信用してもらえると思ったんです。それにもしかして届けてくれるかな、と」 「そこまで?」 「ふふふ。さあ、戻りましょう」 手際の良い雪子。二人の社員は必死についていった。 そして昼。雪子達はサンドイッチと助六弁当を配った。 「お客様、どちらになさいます?」 「選べるの?じゃ、お寿司で」 朝、パンを食べてきたと話す客。寿司を食べて喜んでいた。これには岩倉の接待係りが肩をすくめた。 「副社長。彼女は何者なんですか」 「気にするなと言ったろ?それよりも、雪子ちゃん!こっちだ!俺のところに来い」 「はい」 そばに呼んだ哲嗣。芝生に敷いたシートで待つ彼は少々強引に雪子を座らせた。 「いいから休め。君も食べろ。他のみんなが休めない」 「ごめんなさい?!私も食べます」 雪子はサンドイッチを受け取った。 「あ。哲嗣さんはお寿司ですか」 「何でもいいさ。そっちはサンドイッチか」 食べようとしている哲嗣。雪子はじっと見た。 「何だ?」 「……一つもらっていいですか?お酢の確認をしたいんです」 「お酢?わからんが、ほら」 「ではお稲荷さんを……うん、美味しい!?確かに効いてます?」 頬を膨らませ喜ぶ雪子。それを哲嗣も微笑んでいた。そして雪子にサンドイッチをもらい満更でもない哲嗣。堅物副社長のこの甘い様子。岩倉の社員達は遠巻きで驚きで見ていた。 そして午後。腕自慢による対抗試合になった。見物をしていた哲嗣。取引先の男性に試合を申し込まれた。 「岩倉さん。どうか、お手合わせ願いますよ、ほら」 「ダブルスですね……雪子ちゃん。おい。雪子!」 「はい?」 呼ばれた彼女。急きょ試合に出ることになった。 「もしかして。できないとかないだろうな」 「テニスは少々ですけど」 「君の少々は少々じゃないからな」 「そんな事ないです」 二人の会話。社員達はハラハラしながら聞いていた。そして準備運動をし試合が始まった。 運動得意な二人。余裕で始めたが、相手は実力者。本気のサーブが飛んで来る。二人は必死にボールを追っていた。そしてしばし水休憩になった。 「はあ、はあ。哲嗣さん。お水、どうぞ」 「君が先に飲め。ああ、くそ。強いな。勝てないぞ」 タオルで汗拭く哲嗣の悔し顔。雪子はひそと耳にささやいた。 「あの……勝っていいんですか?」 「はあ?」 雪子の言葉。哲嗣は目をパチクリさせていた。 「もしかして。わざと」 負けようとしたのかという手前。雪子は首を横に振った。 「そこまでないです。でも、今度、私のサーブだし」 まだ気を遣っていた雪子。哲嗣は息を呑んだ。 ……今までも。ずっとこう過ごしてきたのか。自分は裏方で。 それを当たり前と思っている雪子。その健気な気持ち。哲嗣は人目があるのに関わらず抱きしめた。 「哲嗣さん?あの、みんな見てます。哲嗣さん!」 背をバンバン叩く雪子。気にしない哲嗣は耳にささやいた。 「……見たい奴には見せておけ。良いか。雪子ちゃん。ここから本気で行くぞ」 低い声。哲嗣の囁き。彼の本気が伝わってきた。 「わかりました」 「勝つ!行くぞ」 「おう!」 そして大声援の中で始まった雪子のサーブ。ラインギリギリのコースでサービスエース。その後もボレーで返す活躍で逆転のチャンスとなった。 大変な盛り上がり。互いを応援する仲間達。ここで相手の強いサーブが来た。 やっと返す哲嗣。ネットを超えたがボールはゆるく上がった。これを相手男子は逃さない。素早くスマッシュを打ってきた。 「あ!」 哲嗣は間に合わず振り返った時、そこには雪子がいた。 「はいっ!」 この決め球。ラケット両手持ちの雪子がまさかの返球。コート奥。ショットがライン内に鋭く決まった。これには歓声がドッと沸いた。 「入ったの?やった哲嗣さん!」 「よくやった。さあ、挨拶だ」 嬉し顔の彼女の頭を撫でた哲嗣。ネットにて相手と握手をした。相手から笑顔をもらった。 「いやすごい?社会人テニスかと思いましたよ」 「……すいません。つい、熱くなってしまって」 恥ずかしそうな哲嗣。取引先の関係者は拍手をしてくれた。こうして終わった懇親会。挨拶し見送りを済ませた哲嗣。ふと気がつけばまた雪子は後片付けをしていた。 「任せろと言っているのに」 「あの。副社長。ゴミ拾い終わりました」 「用具も返して、鍵を掛けました」 雪子のおかげか動きの良い社員達の仕事ぶり。片付けも早く済んだ。 「そうか。じゃ、解散だ。雪子ちゃん!帰るぞ!」 「今行きます」 参加者員達と仲良くなった雪子。最後は手を振って車に乗った。哲嗣は疲れた顔で発車させた。 「あ。哲嗣さん。あそこのお寿司屋さんに寄って下さい」 「はいはい。お姫様」 「すぐすみますから」 車から降り暖簾をくぐった雪子。そしてすぐに出てきた。 「お待たせしました」 「どうした」 「お礼を言っただけです」 「お礼……」 ここまでするのか、と哲嗣は思った。が、後日。岩倉貿易会社の応接間にて取引先の担当者と無事、大口の契約が結べた。 「いや?先日のテニス。実に楽しかったです」 「こちらこそ。大人気なくムキになってしまいまして」 「岩倉さん。本音を言わせていただくとですね。その前の週、私はあのテニス場でやはり、別のテニス会に参加していたんですよ」 その時とは比べものにならないくらい、楽しかったと彼は笑った。 「それにあのお寿司。妙に美味しかったので、後日。家内と参った次第で」 「そうでしたか」 「大将も元気なお嬢さんによろしくと言っていました」 「ははは。お恥ずかしいです」 この他にもあのテニス会にて親しくなった取引先と、契約が続々と進んだ哲嗣。父である社長の元栄にずいぶん褒められた。 「接待の苦手なお前が。大したもんだな」 「父上。たまたまです」 「そんなにその寿司屋は美味いのか」 「……今度ご紹介します。自分はこれで」 夕焼け。仕事を早く終えた哲嗣。下屋敷にやってきた。 「ただいま帰ったぞ。おい行くぞ」 「今、行きます」 廊下の奥から出てきた雪子。白いワンピース、髪は編み込みすっきりしていた。小ぶりの耳。白いうなじ。シャボンの香りがした。 ……首元が寂しいな、何か買ってやりたいものだ。 「哲嗣さん?」 「良いから、参るぞ」 「行ってきますね、瀧川さん」 「はいはい。どうぞ、ごゆっくり」 靴を履いた雪子。哲嗣の車に乗り込んだ。 「楽しみですね。お寿司屋さん」 「……ああ」 微笑む横顔。安堵した雪子の頬。ハンドルを握る彼の胸はときめいていた。 彼女を乗せた海岸線のドライブ。この気持ちを何と例えば良いのだろうか。 潮風の初夏。砂が溢れる海沿いの道。水平線に沈む夕日。愛しい娘を乗せた彼は渚のテニスコートを横に、車を走らせていた。 『渚のテニスコート』完
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