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八 消えた光
「落ち着いてください。まずはまあまあ」
「一郎さん、話が違うじゃないですか」
室蘭の繁華街、懐石料理の店。待っていた一郎。やってきた男は懇意にしていた議員。これに泣きつかれた。
「雪子さんをくれるというので、私はあなたに融資を」
「待ってください。まず、落ち着いて」
地元議員は一郎の勧めで酒を飲んだ。一郎は静かに語った。
「確かにあれには急な話だったようだが。私からよく言って聞かせますので」
「しかし。室蘭を出たという話じゃありませんか」
「そ、それは。これからですよ」
母親違いの妹、雪子。これを欲する男から金をもらっていた犬養一郎。今回の縁談、父の勧めもあるが大きくはこれが理由であった。
圧力をかければ言いなりになる。そう思っていた一郎。真や雪子の職場に意地悪をし、退職に追い込んだのも彼の策だった。
しかし。肝心の雪子は街を去り、家には真しかいないという話である。
「一郎さん。私は親戚にもう、雪子さんのことを話してしまったんですよ」
「話はこれからだ。まあ、私が見つけますので」
多額の金。返せるはずもない。一郎は雪子を差し出すことしか考えていなかった。
議員の父は東京。今の一郎は室蘭にて地元の会社の仕事を手伝っていた。聞こえはいいが、親の脛齧り。何もせず小遣いをもらっているようなもの。プライドのせいで人の下を動く仕事もできず、上に立つ仕事もできぬ男。舌だけは肥えており醜く太った身体。不器用で車の運転もできない。三流大学を裏口入学。何も取り柄がない彼は、学生時代、肋膜炎で入院をした。
後継者の息子。当時の犬養は東京病院にて彼に高額医療を受けさせた。長期に渡る入院。その部屋にはやはり金持ちが入院していた。生粋のボンボンの一郎。彼らと気が合った。やがて退院した彼、同部屋仲間と麻雀やゴルフなど付き合いをするようになる。
いつでも暇で遊びに付き合う一郎。暇な金持ちに可愛がられていた。しかし、仕事となるといない方がいい人材。父の犬養は一郎に遊ぶことを容認していた。
そんな一郎。ギャンブルの借金をこの議員の森に負担させており、見返りに腹違いの妹との縁談を約束していた。
「まあまあ。雪子は私が向かわせますよ。それよりも父の話なんですよ」
父の政治の話で誤魔化した森。彼の好きなホステスがいる店まで連れて行きこの夜はことなきを得た。
そして後日。いきなり佐藤の家にやってきた。
「おい、真。雪子はどこだ」
「一郎さん。俺もわからないんですよ」
番犬、タロウが吠える夜。玄関内の一郎に、真は説明した。
「いただいた縁談が嫌だったようですけど。あいつ、好きな男がいたようで」
「そんな男がいたのか」
「俺も知らなかったんです」
玄関で膝つく真。悲しく言葉をこぼした。
「雪子の同級生の話では。そいつは樺太に住んでるようで」
「樺太?それはサハリンか」
「ええ。でも俺もそんな遠くまで追いかけていけないので」
北海道の北のオホーツク海。ロシアの半島にある日本の国土。そこには多くの日本人が住んでいる。意外な場所。一郎は北海道以外の地に背中に汗をかいた。
「あいつの恋人は南樺太の敷香の町です」
「国境か……なんということだ。して相手の男は何者だ」
「新聞配達をしていた時の同僚のようで。実家らしいです」
「そいつの名前は。年齢は」
詳しく尋ねる一郎。嘘を信じ、この夜は帰っていった。
「お母さん。なんとか誤魔化せたよ」
仏壇の前。真は笑顔で報告をした。新聞配達仲間が樺太に行った話は真実。
友人には悪いが隠れ蓑になってもらった真。その彼には事情がわかる手紙を出してあった。雪子の不遇を知っている彼なら、協力してくれるはずであった。
「あの様子なら。一郎さんは自分で敷香に行くかもしれないな」
そう言って真は湯呑みの酒を飲んだ。やがて線香の煙が消えた部屋。真は持ち帰った仕事に向かった。
岩倉の仕事。真のせいで取引先の信用を失いかけた。商談が進まない中、哲嗣は一つ、手を打った。
岩倉貿易は輸送船も運営している。この時期は繁忙期で運送荷物が滞っていた。商品を送れない取引相手のために岩倉は臨時輸送船を手配した。
これで商売が間に合った取引先は、岩倉との大口商談を決定したのだった。
今の室蘭営業所は、もう真の誹謗中傷事件よりも、次々と決まる仕事のことで手一杯状態。彼もまた頼りにされており、充実した毎日を送っていた。
夜はまだ暖房が恋しい夜。妹の手編みのセーターを着た真。部屋にある家族写真に微笑んだ。外は春の朧月。これを妹も愛でているかと、心穏やかにしていた。
◇◇◇
この日の岩倉室蘭営業所。朝から電話が鳴りっぱなしだった。
「真君。電話に出て!あなたに用事だって」
「はい、お電話代わりました。佐藤です」
『真君か?岩倉哲嗣です』
「どうも。お世話になっています」
忙しい室蘭営業所の事務所。受話器からの声。真は声を潜ませた。
「どうですか。あいつは」
『元気だ。変わりなくやっているよ』
「迷惑かけていませんか。羽目を外してる気がして」
心配声の真。その想像は結構的中している。哲嗣は大笑いした。
『あはは。すまない』
「やっぱり」
『大丈夫だよ。心配しないでくれ』
ここで真はひそひそと一郎の話をした。哲嗣は黙って聞いていた。
『しかし、ずいぶん、遠くにしたもんだね』
「やるならこれくらい言わないと。でもこれでしばらくは時間稼ぎになるかと」
さすが雪子の兄。優しい顔をしているが、強かである。哲嗣も思わず微笑んだ。
『わかった。それで、真君は問題ないのか。彼女が心配しているが』
妹を預かってくれている多忙な上司の彼。自分の心配までしてくれる懐の深さ。真は電話口で口角をあげた。
「……まあ。静かになりましたけど、タロウと仲良くやってますよ」
『そうか。またそっちに出張で行くから。その時に』
彼とはそう言って電話を切った。目の前の仕事の山。真は笑顔で書類を開いていた。
岩倉貿易会社函館本社ビル。社長室の哲嗣は電話を下ろした。そしてある場所に電話のダイヤルを回した。
「もしもし。兄さん。哲嗣です」
『……おお。久しぶりだな。変わりないか』
……ある。ものすごく。
懐かしい声の兄。つい本音をこぼしたくなる弟の心情。しかし、まだそれを言えぬ段階の弟。多忙な兄に手短に話した。
「実は、犬養代議士を知ってますよね。最近、うちの仕事に絡んで来るようで」
『犬養か。こっちの新聞でも紹介されているな……室蘭の農家の出だったな』
「そうです。忙しいとは思いますが、調べてくれないかな」
『……わかった。できる限りのことをしよう』
ここで哲嗣に秘書から他の用事が入った。
「すまない兄さん。また連絡する」
『ああ、瀧川と下屋敷のお嬢さんによろしく……』
「え」
切れた電話。兄の声。胸がドキドキしてきた。
「なぜだ?」
「副社長。お時間です。会議で先方がお待ちで」
「今行く。はああ」
何もかも見透かす兄。隠そうとした己の心。彼女への気持ちをはっきりさせられた気がした。この日。仕事を終えた哲嗣。彼女がいる下屋敷にやってきた。
「お帰りなさい。お夕飯は?」
「まだ。なんでもいいので食わせてくれ」
「……待って下さい。今、用意します」
哲嗣が来ると思っていなかった雪子。おひつに余っていた冷めた白米。これを鰹出汁に入れて「おじや」を作った。野菜に鮭。きのこにひじきを少々。これができるまで、冷奴、瀧川の塩辛。昨日の煮物などを出した。
「うん、うまい。ところで、今日は何をしていたんだ?」
「仕事探しです。でも、なかなか無くて」
「そうか。無いか?……ふふふ」
落ち込む雪子。それに反してどこか嬉しそうな哲嗣。雪子はじっと彼を見た。
「なんか嬉しそうに見えますけど」
「そんなことはない。俺は応援しているぞ」
「すいません。ご厄介になって。早く仕事を探しますので」
おじやが入るお椀を差し出す雪子。哲嗣は寂しく思えた。
……そんなに俺のそばが嫌なのか。
早くこの家を出たいと言っているように哲嗣には聞こえた。
「君はそんなに仕事がしたいのかい」
「『働かざるもの、食うべからず』ですから」
真面目な瞳。落ち込んでいる様子。このままでは仕事を見つけて早々に出て行く予感。一郎が話す『雪子が樺太に落ち逃げた』という嘘話。思い出した哲嗣の胸は揺れた。
……手元に置くにはどうすればいいのか。
「あの、哲嗣さん」
「なんだ」
「この前のテニスで、岩倉の女子社員さんで電話交換手の人がいたんですけど」
「交換手か」
代表電話にかかってくる電話。これを社内の内線電話へつなぐ事務仕事。女子が数人担当している部署であった。
「今、人出が足りないって、お話ししていました。そのお仕事、私じゃダメでしょうか」
「交換手、か」
同じビル。しかも対面はなく声だけの仕事。目が届く上に外部の人に会う事もない。確かに雪子には適している業務。哲嗣はひとまず納得した。
「人事に聞いてみるか。ちょっと待っておいで」
「はい。みなさん、良い人だったし。哲嗣さんの近くの仕事だから。私も安心だし」
何気なく話す言葉。自分のそばにいたいという発言。哲嗣はグッと目を瞑った。
「わかったよ。時間をくれ」
「お世話になります。あの、哲嗣さん。私、お世話になってばかりで。その、私にして欲しいことありませんか?」
「して欲しいこと、か」
……そばにいて欲しい。それだけなんだが。
それはまだ恋なのか、愛なのか。彼女を守るという正義なのか。自分で自信がない哲嗣。この想いを飲み込んだ。
「お代わりかな。それが欲しい」
「ただいまお持ちします!」
「おいおい。ゆっくりでいいぞ」
台所へ向かう後ろ姿を彼は見ていた。愛らしい彼女から目を離せなかった。
……彼女を守ると決めたんだ。まずはやりたい事をさせてないと。
爽やかな五月の函館の夕べ。これから始まる夏。哲嗣は想いを新たにしていた。
「消えた光」完
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