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十一 雨のち晴れ
「はい。岩倉貿易会社函館本社。交換手の佐藤です」
『あのね。お宅に後藤っているでしょう。その人に回してちょうだい」
「後藤ですね。少々お待ちください」
一覧表を見た雪子。確かに一人、営業に後藤がいた。その彼の内線に電話をつなげた。
『はい、後藤です』
「外線でお電話が入っています」
そう言って受話器を置いた雪子。また外線がかかってきた。
「はい。岩倉貿易会社函館本社、交換手の佐藤です」
『襟裳の昆布、お願いします』
「え?襟裳の昆布?お待ちください」
雪子は受話器を押さえ、横山に尋ねた。
「先輩、この方、襟裳の昆布に電話を回せって」
「襟裳の昆布?どれ、代わって。もしもし、お電話代わりました」
すると、横山はにこやかに電話を回してみせた。
「先輩、その品を売っている部署に回したんですか」
「ふふふ……今の人は『営業本部』って言っていたのよ」
「え?『襟裳の昆布』じゃないんですか?」
「確かに訛っていたけど。あはは……雪子さんて……おかしい?泣きそうよ」
先輩を腹から笑わせてしまった雪子、自分も笑えた。しかし、しっかりしなくてはならないと堪えて電話を取った。
「はいっ!!岩倉貿易会社函館本社。電話交換手の佐藤です!」
『ずいぶん威勢がいいな。おい、俺だ。わかるか」
「……??もしかして。社長ですか」
『ほお。よくわかったな。仕事は慣れたか」
「まだです。でも頑張ります」
電話の向こうの元栄は笑っていた。
『そうか。しっかりやれ。この電話は哲嗣につなげ』
「はい。お待ちください」
雪子は機械を操作し哲嗣のデスクの電話を鳴らした。
『岩倉だ』
「交換手の佐藤です。社長からお電話です」
『雪子か……ああ。わかった。ふふふ』
雪子の声に気がついた哲嗣。笑いながら電話を受け取った。
こうして彼女は必死に仕事を覚えていった。
元来優秀な彼女。さらに声が素敵だった。加えて父親の手前、身につけた言葉遣い。大変上品に話すことができた。
彼女が知らぬ間にこれが評判になっていた。
「岩倉さん。お世話になっています」
「何を仰るんですか。函館銀行さんには今回の融資で大変助かりました」
岩倉ビルの一室。銀行関係者は出されたお茶を飲んだ。
「そういえばそろそろですね。研修会」
「ああ。準備で大変ですよ」
「岩倉さんが当番ですものね」
北海道営の企業だけの北海道企業会。これに入るのは名誉なこと。岩倉も当然役員をしている集まりである。今年の夏の研修会及び夜の懇親会は、岩倉が開催することになっていた。
場所は函館ホテル。講師なども全て手配済み。今回は元栄立っての規模であり、これを利用し道外の会社に負けない、決起の機会にしたい運びであった。
「ええ。函館銀行さんもご招待させてください」
「ありがたいことです。もし人出が足りない場合、仰ってください。手伝いに参りますので」
「ありがとうございます」
「……ところで」
話終わりの帰り際。彼は恥ずかしそうに哲嗣に向かった。
「噂なんですけど。岩倉さんの電話交換手が何やら人気だそうで」
「交換手?どう言うことですか」
「あ?いや。なんでもありません。では」
誤魔化すようにいそいそ帰って行った客。見送った哲嗣は秘書を捕まえた。
「今の話はどう言うことだ」
「……副社長はご存知なかったんですね」
若い秘書はずり落ちたメガネを直した。
「雪子さんの声が素敵だと評判で。用もないのに電話をかけてくる輩もいるそうで」
「ちょっと席を外す」
哲嗣は急ぎ、交換手の部屋にやってきた。
「入るぞ」
「……確認しますが。お客様がお話になりたい鈴木は、黒い背広で背が高く。黒い鞄を持った男で、そして、その他に特徴はありませんか?」
仕事中の雪子。哲嗣はその背後で苛立っていた。
「……結婚指輪をしていた……わかりました。それは配送担当の鈴木です。お待ちくださいませ」
こうして無事、相手を探した雪子。電話を終えたが背後で腕を組む哲嗣にびっくりした。
「どうしてここに?」
「……仕事ぶりを見にきた。いつもそんな電話が来るのか」
「そうですよ。今のは鈴木さん探しで。鈴木さんはいっぱいいます」
「ふざけているわけじゃないんだな」
この会話。交換手の横山が吹き出した。
「す、すいません。副社長。雪子さんも……真面目で、ふふ」
「雪子ちゃん。笑われているぞ」
「私のせいじゃないです。あ、電話。もしもし」
この電話。哲嗣も聞き耳を立てた。
『頼んだんだけど。まだ来ないんだよ』
「恐れ入ります。どちらにおかけでしょうか」
『どちらって、岩国タクシー。あ?違うなこれは」
がちゃん!と電話は切られた。哲嗣は呆れて雪子を見た。
「こんなのばっかりか?」
「たまにですよ。ん。ここに内線だわ。もしもし……はい。います」
雪子はじっと哲嗣を見ていた。
「戻るようにいえばいいんですね。わかりました」
「秘書か」
「そうです。お客様ですって」
受話器を置いた雪子。哲嗣は背後に近寄った。
「……わかった。あのな」
哲嗣はそっと囁いた。それは今夜、下屋敷に行くと言う話であった。
「わかりました」
「では。そのように」
少し機嫌が良くなった哲嗣。鼻歌を初めて聞いた秘書を驚かせた。それに気がつかないくらい。彼は機嫌を良くしていた。
◇◇◇
「襟裳の昆布?ほほほ」
「でも横山先輩はちゃんと聞き取れたんです。やっぱり先輩はすごいですよ」
「瀧川は、めげない雪子様の方がすごい思いますよ」
「ふふふ。ありがとうございます」
時折見せる無邪気な愛しい顔。これが雪子の素顔なのであろう。元気で有能な娘。親のせいであれこれ言われるが、彼女自身は普通の女の子。実兄の愛情が垣間見える優しさの持ち主。甘えるような仕草は心許している証拠。
……このまま会社にいれば。他の男性が放っておかないでしょうね。
「瀧川様。煮物はこのくらいでいいですか」
「そうですね」
「私。そろそろ外を見てきます」
哲嗣を待つ雪子。幼少時の哲嗣を知る瀧川は、歯痒い思いをしていた。
そして彼は帰宅した。
「今日は何をしていた」
「哲嗣さんは私の職場に来たでしょう。あのままですね」
「お茶を」
「はい」
夕食時。雪子は他にも休憩時間のおしゃべりなど話をした。様子を知りたい哲嗣は話を聞いていた。
やがて彼女が食器を下げた。哲嗣は瀧川を捕まえた。
「家での様子はどうか」
「私も楽しくやっています。が、哲嗣様。瀧川は心配です。雪子様はあのように愛らしくて。これでは他の殿方が黙っていませんよ」
「わかっておる」
「わかっているなら、哲嗣様の妻として」
「わかっている!しかし、俺は真君と約束したんだ」
正義として預かると言った言葉。貫かなくてはならない。哲嗣は自分の言葉に縛られていた。
「彼女は俺の正義で守ると誓ったんだ。それは破れない」
「守るとは色んな形があります」
「しかし」
「……雪子様のお気持ちは?哲嗣様と、雪子様のお兄様の思い込みはなりませんよ」
「彼女の、気持ち」
「ええ。そうです」
まだ台所にいる雪子を確認して瀧川は話した。
「とにかく。お二人で、一度本音で話し合ってください。瀧川の方が持ちません」
「わかった。わかった」
「……お待たせです。食後の枇杷です」
「うまそうだ。一緒に食べよう」
「うん」
睦まじい二人。老兵は去ると言わんばかり瀧川は別室へ移動した。
窓の打つ風、夏の雨が降っていた。
◇◇◇
その週末の研修会。夜の懇親会に思ってみもないゲストがやってきた。
「父上。犬養代議士が突然」
「慌てるな。誰かが断れず連れてきたんだろう」
その紹介者の面子を思った岩倉親子。犬養勇に挨拶をした。
「いや。突然やってきて申し訳ないです」
「いいえ。こちらこそ。私は社長の岩倉。こちらは息子で跡取りの哲嗣です」
「そうですか。よろしくお願いします」
犬養勇は参加者のメンバーを見て、元栄に笑みを浮かべた。
「道内の政財界の大御所ばかり。これはすごい顔ぶれだ」
「内地の企業に負けなくないもので」
犬養と元栄の眼力対決。傍の哲嗣は息を呑んでいた。
「さすが岩倉さんだ。それよりも室蘭の……」
……雪子ちゃんの話か。ここは俺が。
力む哲嗣。しかし。それは不発に終わった。
「……岩倉さんは。私の地元の製鉄会社と事業を進めていると言うことで。地元の支援者からお礼を言うように言われております」
「それなら息子です。なあ、哲嗣よ」
雪子の件を知らない様子。元栄と哲嗣は不思議になった。
「ああ。そうです。とても協力的で、仕事も大変勧めやすくありがたいです」
嫌味を含めた言葉。しかし勇には通じなかった。
「ははは。そうですか」
やはり。室蘭への妨害は彼ではない。哲嗣が腑に落ちない顔。元栄はカマをかけた。
「息子はまだこれからでして。犬養さんは?やはり後継は息子さんで」
子供の話。しかし犬養の顔には雪子の雪の字もない。
「いやいや。ひよっこでお恥ずかしいです。勉強で地元を任せてますが、彼には及ばないですよ」
「そうですか」
酒を飲んでいるのか。機嫌の良い犬養。持論を話し出した。
「道内企業はもっと世界に打って出るべきだ。このままでは内地に吸収されてしまう」
「それにはどうすれば良いとお考えですか」
「金です。北海道には石炭がある。それをもっと掘って。もっと売るべきだ」
現場を知らぬ政治家の青写真。元栄は会釈して他の客へ向かった。哲嗣は黙って聞いていた。
「それには国家権力が必要だ。岩倉さん。もし警察ごとでお困りならいつでも言ってください。私が揉み消して見せますよ」
「自分には必要ないです」
「ほお」
酔った勇。気高い頬の哲嗣を見た。
「それに、私は会社を大きくするつもりはありません」
「なぜ」
「社員のためです。会社を作るのは社員。利益は会社の資産と考えず、全て社員に分配するのを理想としております」
「……そんなことをしたら。何も残りませんよ」
哲嗣は酒を一口飲んだ。
「金を残す人、名を残す人。人それぞれですが、我が父の教えは「人を残す」です。社員の力あっての会社。税金を国庫に納めるのも良いですが、我が岩倉は「雇用こそが、最大の社会貢献なり」。社員を第一にしております」
「……さすが、北の狼と呼ばれる岩倉さんだ」
犬養は目を細めた。
「しかし、それは理想だ。金が全て。力こそが全てですよ」
「私の戯言です。申し訳ありません」
「いやこちらこそ。楽しい話でした」
懇親会。犬養はこれで帰っていった。
元栄と哲嗣は迎える側としてこの会を成功させた。
「ただいま」
「哲嗣さん、ここは下屋敷よ。家を間違えているわ」
「……泊めてくれ……頼むよ」
遅い時刻。酔った哲嗣。仕方ないと瀧川が雪子と力を合わせ布団に下ろした。
普段泊まることはない哲嗣。雪子は不思議に思いながら自室で眠った。
翌朝の日曜日。雨の朝。さすがに雪子は起こした。
「ねえ。九時です」
「……」
「これお水。予定はないんですか」
「雪子ちゃん」
哲嗣は布団に雪子を引き入れた。
「哲嗣さん?」
「何もしないから。このまま……このままで」
ただひしと抱きしめる彼。雪子の胸はドキドキした。
「どうしたの」
「好きだよ」
「急に、どうしたの」
「最初から好きだったんだ」
窓の外、雨の音。静かな午前中。畳の匂いがした。
「君を守ると言ったのは本当だ。でも、もう、この気持ちを誤魔化せない」
「……」
「ずっとそばにいて欲しい。どこにも行って欲しくない」
「哲嗣さん」
「君が犬養の娘でも。俺が岩倉の者でも。なんかどうでもいいんだ。雪子ちゃんという女の子が好きなんだ」
「……」
「気が強かったり、どこか抜けたり。頑張り屋で、こんなに可愛くて」
「哲嗣さん」
「君は?俺が嫌いか。はっきり言ってくれ」
うなるような声。彼の心臓の鼓動が聞こえた。彼の胸の中で聞く雪子。それ以上に鼓動を弾ませていた。
「でも、私」
「本音を聞かせてくれ。それを俺は受け入れるから」
……本音。
ずっと胸に抱いていたこと。兄の上司で笑顔の素敵な男性。自分の手料理を美味しいと言ってくれた人。その人は雲の上の人、諦めようとした人。
「雪子ちゃん」
……ああ。この人は本気なんだ。
全てを承知で気持ちをぶつけてくる彼。この想い、誰が誤魔化せようか。雪子はもう、心を融かした。
「好きよ。私も、初めて会った時から」
「雪子」
奪うように彼は唇を奪った。
「雪子ちゃん……俺と結婚してくれ」
「哲嗣さん。私でいいの?本当に」
「まだそんなこと……」
彼女の流れる涙。哲嗣はそっと口で受けた。
「君以外、考えられないよ。雪子ちゃん。君の答えを聞かせてくれ」
苦しそうな声。雪子は熱い胸の思いを正直に言葉にした。
「私……まだすぐには、その、はっきり言えないけど」
「ああ」
「私、ずっと哲嗣さんのそばいたいです」
「おお、雪子」
力強く抱きしめた哲嗣。雪子もその首筋に目を伏せた。
しばしの時間。愛を確かめた二人、彼女の鼻に口付けた哲嗣。ふっと微笑んだ。
「よし。では飯だな」
「できてます……好きなお粥が」
「雪子」
彼はまた口付けをし、おでこをくっつけた。
「俺が好きなのはお前なんだ。お粥じゃないぞ」
「とにかく起きて」
「……まだこのままで」
「ダメ。瀧川さんが心配してます。ほら、起きて、それ」
「くそ」
甘える哲嗣を起こした雪子。仲良く朝餉を食べた。
いつの間にか雨が上がっていた。
縁側にて空を見上げる哲嗣。隣に雪子を座らせた。白い雲が遠くに浮かんでいた。
「あのな。実家に挨拶に行こう」
「いつ」
「今日。そして俺も、今日からここに住む」
空を見ながら話す彼。強い決意が見えた。
「わかりました」
「雪子ちゃん。これからは君を雪子と呼ぶ」
「はい」
彼は手を繋いだ。
「俺はここに住む。しかし、俺は真君と君を守ると約束したんだ。真君の許しが出るまで。俺たちは今までの関係だ。真君に挨拶をしてから、結婚を勧めよう」
「はい」
「質問はないか」
真剣な話、緻密な内容。哲嗣の本気。雪子もまた決意した。
「……仕事を続けてもいいんですね」
「ああ」
「私。お盆にお母さんのお墓参りに行こうと思っていたんです。その時に室蘭に帰るので。その時に、お兄ちゃんに挨拶したいです」
「わかった。おいで」
肩を抱いた哲嗣。二人で空を見ていた。
「雪子」
「はい」
「好きだよ」
「雪子も好きですよ」
「どれくらい」
「そ、それは、あの雲くらいかな」
「俺は空いっぱいだな」
「じゃ私は海いっぱいで」
「雪子」
口付けを交わす二人。函館の夏、青い空。流れる雲。港がみえる丘、飛ぶカメメ。若い二人には夏が来ようとしていた。
十一話「雨のち晴れ」完
第一章「灰色の風」完
第二章「ハマナスの唄」へ続く
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