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二 青い時
「おはよう。哲嗣さん、って、起きて下さい!ほら」
「……何時」
「起きる時間です。さあ、いい天気ですよ」
雪子に起こされた哲嗣。寝癖で髪が爆発していた。
……また跳ねてる?早く直さないと。
彼を手洗いに向かわせた彼女は、台所にて、タオルにお湯をかけた。
作った蒸しタオル。お膳を前に座った哲嗣の頭に器用に巻いた。
「こうすれば、寝癖が治るので」
まだ寝ぼけている哲嗣はなすがまま。優しい手に甘えていた。
「いいから。君も食べろ。一緒に行くんだぞ」
「はいはい」
今日から一緒にご出勤。どこかワクワクの二人は支度をした。
哲嗣の背広を選んだ雪子。自分の支度もした。彼女は白いブラウスの紺のスカート。長い髪を結び小顔がより引き立っていた。清楚な彼女は確かに長身で兄の真よりも高い。
世の男性には劣等感を抱かせるスタイルであるが、哲嗣も高身長。二人で歩くと人が振り返るほどの目立つカップルであった。
「行くぞ」
「はい。瀧川さん、行ってきます」
「お気をつけて」
哲嗣が運転する車に乗って二人は会社に向かった。
彼は真が襲撃されたことを雪子に話さなかった。真に言われたのはもちろんであるが、自分を責める事が見えていたからである。
「雪子。あのな。これから俺は重要な仕事が控えている。もしかしたら、妨害するために、一緒に住むお前も、嫌がらせを受けるかもしれない」
「大丈夫ですよ」
「雪子。これは冗談ではない」
信号待ち。彼は静かにそして低く言い放った。
「心配なんだ。だから、俺と帰れない日はハイヤーで帰ってくれないか」
「今夜も遅いんですか」
「何か用事があったのか?」
……言えなくなっちゃったわ。
今の話を聞いた雪子。彼への用事を言えなくなってしまった。
「なんでもない。あのね、哲嗣さん。私、いつも下屋敷のそばのアパートに住んでいる岩倉の事務員さん達と一緒に帰っているんです」
本当の話。哲嗣はうなづいた。
「それならいいが。一人になるのはしばらく避けてくれ」
「わかりました。あの、青です」
彼の膝をトントン叩く雪子。彼はシフトレバーを握る前にその手を重ねた。
「そんなに早く行きたいのか」
「青だからです。ほら、行きましょう」
「この手はこのままだぞ。いいな」
それからシフトレバーを握った。朝の函館の町。二人きりのドライブ。こうして二人は出社するようになった。
「哲嗣よ。炭鉱の採石がいいようだな」
「はい。兄上の提案で、彼らの住宅を整備する計画です」
「鉱員達のやる気が起きるなら、まあ、投資をして仕方ないか」
「ちなみに工事は現地の建設会社に発注予定です。これは兄上の」
「哲嗣。朔弥の案も良いが、お前はどうなのだ」
「自分ですか」
社長室の父。真面目な次男を向いた。
「そうだ。朔弥も案もいいが、わしはお前の意見が聞きたい」
「自分は、そうですね」
哲嗣は書類を取り出し、めくった。
「あった。ここだ……兄上の話で現地の建設会社にしましたけど。施工会社を一社にせず、そうですね。舗装やガラス会社。後にもなるべく色んな会社を使うようにしました」
「面倒だろう、そんなことをしたら」
「そうでしたけど。炭鉱地域に広く浅く、金を落とそうと思いまして」
「それは何故に」
雪子と知り合った哲嗣。彼女の考え方に影響を受けていた。大企業となった岩倉。自社だけでなく他社の利益を重んじる必要性を考えるようになっていた。
「我が社は現在、売上が最高益です。これを知っている人も多く、悪く言えば
『奢っている』と揶揄される懸念があります」
哲嗣の意外な配慮。元栄は黙って聞いていた。
「それに幌内炭鉱は誤解による事件があった場所。我々は炭鉱地域にも、経済の活性化に貢献するべきと思いました」
「……まあ、良いのではないか」
長男にはない細やかな配慮。息子の成長に元栄は目を細めた。
「そのように勧めよ。さて、昼時か」
「父上は蕎麦でも出前取りますか」
父上は、という言葉。元栄は動きを止めた。
「ん。お前は何を食うつもりだ」
さっと隠した風呂敷袋。元栄は見逃さなかった。
「弁当か」
「……別に。普通の飯ですよ」
「雪子のだな。それは俺が食う。寄越せ」
「はあ」
以前の父も兄の婚約者の弁当を食べた事があった。これを覚えていた哲嗣。隠すつもりであったが、やはり見つかってしまった。彼は仕方なく弁当を差し出した。
「そんな顔するな。俺はお前らの弁当を横取りするのが楽しみなんだ。で?これはなんだ」
「雪子の料理は田舎料理で」
「うるさい!なんだと聞いている」
哲嗣は仕方なく作ってくれた料理を説明した。嬉しそうな元栄に哲嗣は呆れて電話にてざる蕎麦を注文した。
「これは」
「焼き飯ですね」
「お焦げご飯に醤油か……他の味もするな」
「当ててください」
「俺を試すつもりか?待て待て」
すると元栄はどこかに電話をした。
「ええと、内線694と。おい。お前の弁当の焼き飯のは、山椒か。ああ、わかった。邪魔したな」
「父上?どこに電話をしたんですか」
「うるさいうるさい」
「もしかして。雪子に聞いたんですか」
交換手の雪子本人に聞くという父は内線番号を覚えている有り様。驚くよりも呆れる哲嗣。しかし父は嬉しそうだった。
哲嗣は先日、岩倉本家へ雪子との挨拶は済ませて置いた。ゆくゆくは結婚の話。雪子の素性を知っている母は喜んでくれた。最近の母は趣味の生け花に夢中。才能があったのか教えて欲しいと言われ、教室に通う日々を過ごしており、息子の嫁にはそれほど興味はない様子であった。
父もまた雪子を気に入っていた。犬養の娘の事実を気にしていたが、会社で本人に会い、物おじしない品のある様子をすっかり気に入っていた。
こうして午後の仕事をした哲嗣。急に仕事が入り遅く帰宅した。
世話をしてくれる雪子。どこか疲れていた。哲嗣もまた疲れていたので、二人で早めに休んだ。
翌朝も一緒に出勤したが、帰りは別の日々が続いた。そんなある日、夕食後の哲嗣は瀧川に尋ねた。
「なあ、瀧川よ」
「なんでしょうか」
「雪子って体に痣があるのか」
「へ?」
「ちらと背中が見えたんだが、お前、知っているか」
「さ。さあ?」
「別にあっても良いのだが、そうか」
ちょっとドキドキの瀧川は、台所にいる雪子のところに逃げてきた。
「雪子様。哲嗣様は気が付きそうです」
「大丈夫。明後日ですもの」
「でも。秘密にしなくても」
心配顔の瀧川。雪子は首を横にふった。
「心配かけたくないんです」
「でも」
「おい。雪子。爪切りはどこだ」
「……大丈夫よ。はい、今行きます」
こうして誤魔化した雪子。とうとう哲嗣の出張日に、その日を迎えた。
◇◇◇
「岩倉貿易ーー行くぞー」
おう!と女子事務員達は掛け声をかけた。
場所は函館体育館。この大会は函館にある会社の女子社会人バレーボール大会。長身の雪子は岩倉社員としてエントリーしていた。
昼休みに遊んでいたバレーボール。その才能を見込まれてスカウトされた雪子。何度も断ったが、今回だけという話で了解していた。
哲嗣に話そうとしたが、一人で帰るなと言うお達し。心配する彼を思い秘密にしていた。
猛特訓の末、全身青痣で望んだ雪子。気迫あふれる女子達は始まる前から火花が飛んでいた。
応援席は満席。ほとんどが他社の応援。雪子は相手の応援に驚いていた。
「そして。うちの応援はあれだけですか」
「うちの社長はこういうことに興味がないから」
……確かに。お仕事には関係ないものね。
しかも。こんなに勝ち進んだのは初めてと話す先輩。運動好きの雪子は燃えてきた。そして迎えた初日の試合。岩倉女子チームは勝利を収め、翌日の試合へつなげた。これが翌日。とうとう、出張先の会議の終わりの哲嗣の耳に入った。
「岩倉さん。お宅の女子バレーが決勝戦まで進んだそうですね」
「本当ですか。知らなかったな」
「函館バスと決勝ですよ」
取引先の話。そばにいた哲嗣に秘書の小野寺は彼に話した。
「副社長、ご存知ないんですか。雪子さんがエースなんですよ」
「なんだって?それは本当か」
「テニスで活躍してたので、バレーチームにスカウトされたみたいですね」
「なぜそれを早く言わないんだ!……あ?お世話になりました。これで失礼します」
会議室を飛び出した哲嗣。秘書に体育館を目指させた。
道が空いており、なんとか試合時間に到着した。
函館体育館は熱気で大変盛り上がっていた。そんな中、場違いな和服の老婆がいた。
「あ。哲嗣様」
「瀧川か。雪子はどこだ」
「……ベンチです。今は交代して」
「どこだ、あそこか」
ベンチで休んでいる雪子。どこか落ち込んでいた。
「どういた?怪我か」
「先ほど顔面にボールを受けて。鼻血が出たんですよ」
「鼻血?全く。無茶ばかりで」
呆れて心配する哲嗣。瀧川は申し訳なさそうに話した。
「毎日練習してました。でも心配なさるので秘密にしていましたが、本当は今日も応援にきて欲しかったようですよ」
「……愚かな……おい!雪子。雪子」
大声援の中の声。雪子はこの声を探した。
……あ。なんでここに。
客席の彼の口。「しっかりやれ!」と見えた。隣にいる瀧川も必死の様子。
……忙しいのに。いつもきてくれるなんて。
これに雪子は勇気をもらった。やがて同点の中、疲れた先輩と交代した雪子は、相手の強烈サーブに向かった。
「うわあ?雪子!危ない!」
「いけます!それ」
この時、雪子は回転レシーブでこれを取った。会場は歓声が上がった。
「すごい?瀧川見たか?!」
「まだまだ!雪子様はこれで終わりませんよ?そして……そこ!アタック」
激しいラリーの末。最後は雪子のアタックが決まった。
『勝者。岩倉貿易女子チーム!』
「え。これで終わりか?」
「勝った!勝ちました!優勝ですよ!」
コートで抱き合う選手。哲嗣は瀧川を押し避け人混みを分けて彼女を捕まえた。
「雪子!」
「あ?哲嗣さん。ごめんなさい、黙って」
「おめでとう!すごいな。最高だよ」
「え」
怒られると思った雪子。しかし、哲嗣は満面の笑みで彼女を抱きしめた。
「よくやった。すごい、お前は偉い」
「哲嗣さん」
ここで彼はどさくさに雪子の頬にキスをした。そばにいたバレーチームの女子は黄色い悲鳴をあげた。
「哲嗣さん?困るわ」
「うるさい!事情は後で聞く。まずはおめでとう」
「うん、ありがとう」
雪子は最優秀選手としてトロフィーをもらい帰宅した。
「おかえり」
「ただいま。瀧川さんは?」
「応援して疲れて寝た」
「そ、そうですか」
気まずい雪子。哲嗣は風呂に入れといった。雪子はその通りにした。
やがてでた風呂。彼女は瀧川が用意してくれていたチラシ寿司を哲嗣と食べようとした。
「その前に。ちょっと来い」
「はい……」
部屋に呼ばれた雪子。怒られると思い低姿勢で正座した。
「この度は、心配をおかけして」
「それはもういい。で、傷はどうした」
「傷?ああ。痣のことですか」
心配でたまらない哲嗣。体を見せろと言い出した。
「ええ?痛くないです」
痣だらけの体。見られるわけにはいかない。雪子は必死で抵抗した。
「いや。ひどいはずだ。腕を見せてみろ」
「ううう」
浴衣をめくって見せた腕には確かに痛々しい痣があった。
「足は?他には」
「足は少々。他は見えないから」
「見せろ。早く!」
「ううう」
浴衣をずらして見せた肌。そこには痛々しい痣が広がっていた。白い肌に広がる痣。彼女の勲章に哲嗣は顔を顰めた。
「ひどいでしょう。あんまり見ないで下さい」
「ああ。確かにひどい」
「回転レシーブのせいね」
「雪子よ……」
抱きしめた彼は祈るように囁いた。
「ひどいのはお前だ。俺をこんなに心配させて」
「ごめんなさい」
「好きなことをしていいが、もう内緒にしないでくれ」
「……はい」
「はああ。心臓が止まるかと思ったぞ」
自分を心配してくれる熱い胸。雪子は目を閉じた。
「哲嗣さん。さあ。ちらし寿司を食べましょう」
「ああ」
見つめる二人。手を繋いで部屋を移動した。
「ところでな。雪子」
「うん」
「お前ってすごいな」
「ふふ。ふふふ……」
歩く廊下の窓からは虫の音がした。函館の夏の風は甘く優しく吹いていた。
完
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