一 白銀の朝

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一 白銀の朝

「いらっしゃいませ。どうぞ、中へ」 「すごい雪ですね。もしかして、ここ、あなたが一人で雪かきをしたんですか」 大正時代、北海道室蘭市。二月のぼた雪が降る白い世界。驚く来客のコート姿の男性。スコップを持つ白いセーター姿の雪子は笑顔だけで答えた。 「お気にせずどうぞ。事務所で義母(はは)が待っていますので」 客を見送った雪子。そしてまた一人、広い駐車場を雪かきをした。 灰色の空から終わりのない冷たく落ちてくる結晶。自分で編んだ白い毛糸の帽子、毛糸の手袋。足元はゴム長靴。お下がりのスキーウエア。しかし雪子は汗をかきながら、清々しい気持ちでスコップを振るっていた。 そこに怒声がした。 「いつまでかかってるのよ。お茶を淹れなさいよ」 「はい」 雪だるまの側にスコップを挿した雪子。帽子を取り呼ばれた事務所に入った。ストーブが焚かれた部屋。雪子は事務所内の椅子を避け、ストーブの上のやかんを慎重に持ち、台所に移動した。接客している義母と異母姉たちの笑い声。これを背にしてお茶を淹れていると、着飾り化粧した異母姉の長姉、一美がお茶を取りに来た。 「全く。とろいんだから。お茶を淹れるのにどうしてそんなにかかるのよ」 「すいません。お姉様」 「それと!ストーブの石炭がないわよ。減る前に入れなさいよ」 「はい」 雪子は勝手口に回った。大雪の中、物置の戸を開けた。十能と言われるスコップ。これで黒い塊をブリキのバケツに入れた。重さによいしょと掛け声をして事務所に戻ってきた。 「失礼します。石炭です」 「お客様。すいません、ただいま暖かくしますね」 おしゃべりの世界の熱いストーブ。このドアを十能で器用に開けた軍手の手。真っ赤に燃える世界に石炭をくべた。その炎を確認した雪子。そっと立ち上がった。 「終わりました」 「早く行きなさいよ。お客様。失礼しました」 雪子はまた、独り、雪かきを始めた。 ◇◇◇ その夕刻。室蘭の議員、犬養勇の選挙事務所。支持者や後援会長が帰り家族だけになっていた。 「あなた。支持者の方が講演会の会場を変更したいって言っていたわ」 「秘書に伝えておけ。ところで。雪子はどこにいる」 暖かい選挙事務所。室内にいた本妻の千代と本妻の娘一美は、まんじゅうを食べていた。 「一美。雪子はどこなの」 「お手洗いの掃除よ。汚れているのに平気な顔して雪かきしているんですもの。呼びつけてやらせてます」 「いいから呼んでこい。聞きたいことがあるんだ」 「また私ですか?面倒ごとはいつも私なんですね」 嫌味たっぷりの一美に連れられてきた雪子。小柄で太った姉の一美とは対照的の痩せ型の長身。白いセーターにジャージ姿でエプロンだった。 そんな愛人の娘、雪子に犬養は目を向けた。 「お前。学校の成績で一番だったのは本当か」 「……はい」 「あなた、どういうことですか」 「支援者にそう言われたんだ。そうか」 犬養。口髭を触りながら雪子に尋ねた。 「それは、どの教科だ。いつもの国語か」 「この前の学年テストは、理科だけ二番で、後の四教科は一番でした」 「他にも作文のことを聞かれたが、それは何だ」 義母と異母姉の冷たい視線の攻撃の中。雪子は答えた。 「読書感想文です。それが北海道文学コンクールで最優秀賞だったんです」 「たまたまよ、ねえ、一美」 「そうよ。レベルが低いのよ」 「雪子。そういう話は報告せよ。私に恥をかかせるな」 「申し訳ありませんでした」 雪子が去った室内。千代と一美は犬養に文句を言った。 「なんですか、あの態度」 「お父様。あとであの子にはよく言っておきます。はい、お茶をどうぞ」 「いや、良い……お前はお前の仕事をせよ」 選挙が近い室蘭市。鉄鋼の街。犬養は三度目の当選を目指していた。本妻と長女。そして長男、他にも妾の娘、雪子を手伝わせていた。猫の手も借りたい選挙。妾はもう亡くなっている犬養。非嫡子の娘まで動員していたこの事務所に長男が帰ってきた。 「父さん。大変だ。向こうは銀幕スタアが応援演説に来るって」 「あなた。どうしましょう」 「お父さん!」 「うるさい。少しは黙らんか」 犬養は窓の外を見た。しんしんと降る雪。末娘が一人、ただ、ひたすら雪かきをしていた。 そして。翌日。犬養は事務所の奥に雪子を呼んだ。雪かきをしていた娘。暖かい部屋に白い肌を頬を赤くしていた。 うるさい妻と娘たちは排除した犬養。ストーブを前に足を組んだ。 「雪子。対抗馬は銀幕スタアが演説に来る。それにまだ私の当選は確実ではない。お前ならどうする」 「……そうですね」 自分で作った甘酒の鍋が乗るストーブの上。雪子はこれを掬い湯飲みに入れ父に渡した。そして雪子は椅子に座った。犬養は一口飲んで続けた。 「一美は他のスタアを呼ぶべというし、一郎はその演説時間に私も演説をして妨害した方が良いというが」 「放っておいて、良いと思います」 自分は飲まない雪子。父へ静かに答えた。 「お父様の支援者は地元の会社の人達です。銀幕スタアを喜ぶような人はまだ選挙権のない若い人だと考えます」 「なるほど」 「それに。そんなに告知しているなら、多くの人が集まります。でも、そんなに集まると危険なので。警察に注意されると思います」 「確かに」 「もしかしたら、即解散で、演説はできないかもしれないですね」 たくさん集まればむしろ好都合と受け取った犬養。雪子の話に犬養はうなづいた。 「では無視せよと」 「できればその時間。お父様は僻地(へきち)の方へ演説なされば、確実に声が届くと思います」 「なぜ、僻地なのだ」 「そこには、銀幕スタアが来ないからです 一人一人を大切にする。聡明な末娘の策。犬養は目を細めた。 「……わかった。そうするとするか」 「では私は仕事に戻ります」 「雪子よ」 立ち上がろうとした彼女。犬養はその目を見つめた。 「本当に生活費は要らないのか」 「はい。今までお世話になりました」 「……お前は私の娘だぞ。遠慮することはない」 「いいえ。春から社会人だから。これからは大丈夫です」 頭を下げた雪子。犬養が黙る中、吹雪の外へ向かった。 そして。銀幕スタアの演説日。その時間、犬養は雪子をウグイス嬢にし、車で郊外を回っていた。 『ありがとうございます。犬養です。お世話になっています。室蘭のため、橋を作りました。室蘭のため、道路を作っています。犬養に、まだまだ仕事をさせて下さい』 そんな僻地へ行きたくないと話す一美。このため連れてきた雪子。しかし初めてとは思えぬ綺麗な演説。犬養は機嫌をよくしていた。 そもそも。雪子の母もウグイス嬢。綺麗な声の女だった。妾には連れ子の男子がいたが、犬養は妾亡き後、二人に生活費を出していた。 それも今回の選挙で終わりにしたいと申し出た雪子。雪子は自立を求めていた。そんなマイクを握る娘の声。複雑な思いの犬養はじっと聞いていた。 『犬養でございます。あ。停まって』 演説車の前。雪の道。薄着のおばあさんがうずくまっていた。雪子は車を停めさせ降りた。 「ここで、何をしているんですか?おうちは」 「……うち?どこか、わからないんだよ」 「どうした。雪子」 「お父様。このままでは凍死してしまいます。お車に乗せていいですか」 「ここにか?」 住所を聞くが話が見えない老婆。雪子は近くの農家で尋ねると正体が知れた。高級スーツを着た犬養。隣に薄汚い老婆を乗せ、自宅まで送る羽目になった。 「全く。厄介なことよ」 「すいませんお父様。おばあさん。さあ、おうちよ」 馬小屋が家の老婆。そこまで送った雪子。探していたと家族に感謝された。そして車演説に戻った。 「お前のせいで。回る場所が減ったぞ」 「すいません」 「あんな。年寄り、放っておけば良いものを」 不機嫌になった犬養に謝った雪子は、その後、声を絞り演説をした。 その夕刻。事務所に帰ると銀幕スタアの演説の中止の知らせを聞いた。 「やはりな。しかし。こっちは無駄骨だった」 「すいません」 「何してんのよ」 話聞いていた一美は雪子を突き飛ばした。パイプ椅子を倒し雪子は倒れた。 「今まで生活費を出してもらったくせに。この、恩知らず!」 「すいません」 「お父様。もう雪子なんかにお金をあげないで。こいつにあげるくらいならドブに捨てた方がマシよ」 興奮している一美。ヒステリー声が疲れる犬養。頭を抱えた。 「一美。それくらいにしておけ。雪子も、行きなさい」 「はい」 喉を枯らした雪子。謝ると、誰にも言われずに事務所の雪かきをはじめた。降っていない夜は月が綺麗だった。 その翌日から選挙活動は激しくなっていた。選挙車は限られているため、姉が担当する。雪子は学生で平日は学校に通っていた。そして。選挙の当日、犬養は大差で勝利した。 「さすが犬養先生。やはり、あれが一番良かったですな」 「何の話ですか」 「雪の中の、迷子の老婆の話ですよ」 万歳賛称が終わった選挙事務所。支援者の彼は嬉しそうに犬養の肩を叩いた。 「僻地の雪の中、老婆を助けたそうじゃないですか。あの時の馬主がね。ずいぶん、犬養さんを褒め称えたもんで。家畜関係の票はみんな犬養さんじゃないのかな」 「そう、ですか」 花束を抱えた犬養。酒を喰らう長女と長男が笑う祝いの席。その選挙事務所の外、独り雪かきをしていた末娘を見つめた。 その夜。ひっそりと雪子は実兄と暮らす自宅に帰っていた。 父違いの兄、(まこと)。二人の母は当初、ペンキ職人と結婚したが脚立から落ちて彼は亡くなってしまった。幼き真を抱えた母は、必死に子育てをし、ある時、犬養の選挙を手伝う事となる。この時、犬養に熱望された母は、半ば断れず愛人となった。そして生まれたのが雪子である。 代議士の犬養は本妻の家族と東京暮らし。地元の室蘭に帰った時に、雪子の家にやってきていた。しかし、純粋だった母はまるで自殺するようにお酒で亡くなってしまった。 亡き後。古家を与え真の分まで生活費を出してくれた犬養。雪子は恩返しに今日まで過ごしていた。しかし就職した兄と相談し、この夜を限りに支援を断っていた。この夜は兄との再出発。雪子は兄の帰宅を待っていた。 玄関に車が停まった音。それに鼓舞するかのように番犬のアイヌ犬、タロウの吠える声がした。 「ただいま」 「おかえり。お疲れさま。あれ?」 「……ごめん。この人、会社の上司なんだけど」 困り顔の兄。その肩には酔い潰れた男がいた。 「どうしたの?」 「ホテルに送るんだったんだけど。雪で通行止めで。遅れなくなったんだ」 「ごめんよ……真君……俺は、その」 「酔ってるのね。こっちよ」 雪子は真と一緒に彼を布団に寝かせた。 「ごめん雪子。俺も限界」 「いいのよ。兄さん。おやすみなさい」 疲れた兄を布団に送った雪子。それでも父の束縛からは解放されて心は晴れていた。 ◇◇◇ 翌朝。雪子は彼を起こした。 「あの。朝ですよ」 「……もう少しだけ」 雪子は無情にがばと布団をめくった。男は寒そうに丸くなっていた。 「ううう」 「ほら。早く。お手洗いに行きますよ」 「ここは……う?気分が」 「ここで吐いちゃダメです。こっちよ」 雪子の仕切り。男は手洗いに入ったが、吐かずに済んだ様子。彼女は彼を洗面台に連れてきた。 「大丈夫ですか?洗面器にお湯を張ったから、顔を洗ってください」 「……はい」 まだ眠そうな男は言う通りに顔を洗った。そして味噌汁の匂いがする居間に顔を出した。 「あ。哲嗣さん。気分はどうですか」 「真君……ここは君の家か」 昨夜のことを思い出した岩倉哲嗣。真のそばにあぐらをかいた。 そこにエプロン姿の雪子がお盆を持ってきた。 「あの、ちょっと避けてくれますか」 「おい雪子?!この人はな」 「いいんだよ。真君」 「でも」 会社の副社長の哲嗣。妹に紹介しようとした真を遮った。 「本当にいいんだ。俺も気を遣いたくない」 「すいません。妹は知らないもんで」 申し訳なさそうな真。これを気にせず雪子は朝ごはんを支度した。 「まず二人とも、お水をどうぞ。そしてご飯です」 「すいません。哲嗣さん」 「いいんだよ。あのな。妹さん。俺は飲んだぞ」 「こっちはお味噌汁……今朝はお粥です。すいません、こんな食事しかなくて」 「本当にすいません。哲嗣さん。あの、無理して食べなくていいですから」 謙遜する兄と妹。これに彼は制し箸を持った。そして雪子も座布団に座った。三人でいただきますと挨拶をした。 「この貝は、しじみか?」 「そうです。熱いから……お粥はこれくらいでいいですか」 雪子が土鍋で作った卵粥。湯気を立て碗に盛る様子。哲嗣の目の色が変わった。 「もっとだ。もっと、それくらいで」 「こんなにですか。さあ、どうぞ」 受け取った哲嗣。食べ出した。 「うん!うまい。こっちは、なんだ」 「昆布の佃煮です」 「これは?」 「それは、ホタテのサラダ」 「ホタテのサラダ?うまいもんだな」 むしゃむしゃ食べる哲嗣。雪子は目をパチクリさせた。 「お腹が空いているんですね」 「こら?雪子」 「ははは。うまい。粥をもう一杯!」 「は、はい」 こうして哲嗣はあっという間に土鍋を空にした。 「こんなに食べるなんて」 「哲嗣さん、お腹、大丈夫ですか」 驚く兄妹。哲嗣は満腹で満足顔で足を崩した。 「ああ。この茶も美味いな」 すると雪子があ!と声を出した。 「大変、遅刻するわ」 「気をつけて行けよ」 「うん。着替えとお弁当出しておいたから」 忙しくエプロンを外した雪子。その下のセーラー服に哲嗣は目を細めていた。 嵐のように雪子はバタバタと玄関を飛び出していった。 「本当にすいません、あんな妹で」 「いやいや。元気があっていいじゃないか」 そして時計を見たら出かける時間。哲嗣は寝床にネクタイを探しにいった。 「あれ」 そこには『よければどうぞ』という書き付けとワイシャツと靴下と着替えがあった。 汗臭かった哲嗣はこれに着替えることにした。 玄関に行くと真は番犬に餌をあげており、靴を履いた哲嗣を振り返った。 「大きな犬だね」 「こいつはアイヌ犬で。隣の爺さんが飼っていたんですけど、亡くなったんで、うちで飼っているんです」 「へえ」 白い大きな犬。のっそり犬小屋に入っていた。玄関の鍵を締めようとした真。そこにあった風呂敷包みが二つあったのに、一つしか手にしなかった。 「真君。忘れ物じゃないか」 「いいんですよ。これ弁当なんですけど。雪子の奴、哲嗣さんの分まで弁当作ったんです。でも、要らないですよね」 「俺の分……」 置いてきぼりの紫の包み。哲嗣はじっと見た。 「気にしないでください。帰ってから俺が食べるので」 「何を言う。せっかく妹さんが作ってくれたんだろう」 持とうとする哲嗣。しかし真が遠慮した。 「いいんですよ。ただの握り飯とか、そういう田舎料理ですから」 「いいんだ。いただくよ。それは俺が持つから」 金持ちの家の哲嗣。解せぬ真は彼を連れて岩倉貿易室蘭支店に車を走らせた。 ◇◇◇ 「しかし。どうしてみんな真君って呼ぶんだ?」 「自分は佐藤なんですけど、五人もいるんで」 「なるほど」 真は新入りの営業マン。特に腕利きではないが、室蘭ではやけに顔が広かった。このため今回の函館本社からやってきた哲嗣の長期出張のお供に任命されていた。 こうして仕事を進めた昼。昼食接待を断った哲嗣は事務員にお茶を入れてもらい事務所で弁当を広げた。 「このおにぎりは、海苔じゃないんだな」 「高菜ですね。漬物ですよ」 「どれ」 哲嗣はうまいといい、今度は卵焼きになった。 「真君。これ何か、混ざっているな」 「ネギですね。家にあったんでしょう」 「このソーセージは」 「魚肉です。我が家ではそれが肉です」 「うまいもんだな」 庶民の食事をしみじみ食べる哲嗣。真の方こそ驚いていた。こうして仕事を終えた二人。今夜こそ哲嗣をホテルに送ろうと真は車を走らせていた。 「そうだ。妹さんに世話になったから。なにか菓子でも買って礼を言わせてほしいな」 「哲嗣さん。うちの妹のことなんか気にしないでくださいよ」 「そんなわけにいかないさ」 上司である哲嗣。無碍にできない真。明日の取引先への手土産と一緒に有名店でバームクーヘンを買った。 「いいのかい?そんな小さいので」 「十分です。あいつには勿体無いくらいですよ」 哲嗣の手前、真は自宅に寄り道をした。 「雪子。帰ったぞ」 「妹さん。こんばんは」 「お帰りなさい。あら、今夜も?」 哲嗣の正体を知らぬ娘。哲嗣は大笑いした。 「すいません。本当にお前と言う奴は」 「いいんだよ。妹さん。世話になったね」 夕食の支度中。雪子は割烹着姿。片手にお玉を持ったまま紙袋を受け取った。 「ご丁寧にありがとうございます。顔色がよくなってよかったですね」 「君のおかげだ。弁当もありがとう」 「哲嗣さん。調子に乗るんでいいんですよ」 「ん?……きな臭くないか」 「え。あ!?」 雪子は慌てて台所に戻っていった。火事を心配した哲嗣も家に上がった。 「大丈夫か」 「はい。カレイの煮付けは無事です」 「カレイの煮付け?」 肩越しの鍋の中。醤油色の魚は生姜の香りを立てていた。 「子持ちだから。少し高かったけど。脂が乗って美味しそうで」 「そうだな」 火事よりもカレイの心配の雪子。背後に立つ哲嗣は大笑いをした。後からやってきた真は恥ずかしいとため息をついていた。 「そうだわ?あの、お客様。ワイシャツをアイロンしたので。持って行ってくださいね」 「ああ。君が洗ってくれたのか」 「ええ。その紙袋です」 ちゃぶ台にあったのは洗濯してアイロンをかけた白いシャツ。脱いだ下着も洗ってあった。雪子はそっと哲嗣を見上げた。 「今の服は洗濯しないで兄に返してくださいね。あと、よければ少し食べて行かれます?」 「え?」 「ご飯も炊いたし。これ、大根もよく沁みて美味しくできたから」 お腹が空いている人だと思っている雪子。しかし真が血相を変えた。 「いいんだよ?哲嗣さんはホテルで食事があるんだから」 「そうなの?ごめんなさい。そうよね。ホテルの方がいいものね」 恥ずかしそうに蓋をしてしまった雪子。この時。哲嗣のお腹がぐう!と鳴った。 哲嗣はゴホンと咳払いをした。 真も誤魔化そうと声をかけた。 「ほら雪子。時間を取らせるんじゃないよ。哲嗣さん。そろそろホテルに行きますよ」 「いや。申し訳ない真君」 哲嗣は真顔で兄妹を向いた。 「今夜もここに泊まらせてくれないか」 ◇◇◇ 「今夜も」 「雪子。お前は」 「……真君。そんなに怒るなよ」 恥ずかしそうな哲嗣。頭をかいた。 「こっちの方が快適そうだ」 「私は構わないけれど、ホテルはいいんですか」 自分を見上げる瞳。艶やかな光は素直な眼差し。哲嗣は暖かくなる胸を押さえた。 「構わないよ。それにしてもいい匂いだね」 すると雪子はバタバタと何かを取り出した。 「ではですね。二人ともご飯の前にお風呂に行ってきて」 「お風呂?」 「哲嗣さんに、銭湯って。本当にすいません」 「いいんだよ。行くよ風呂は好きなんだ」 哲嗣の正体を知らぬ雪子。自分の風呂道具が入った風呂敷包みを哲嗣に渡した。 「これは私のシャンプーと石鹸です。無駄遣いしないでね」 「わかった」 「全く。お前は。人の気も知らないで」 冷や汗の真。笑いが止まらない哲嗣。男二人は歩いて近所の銭湯に行った。 冬の夕方。雪は止まっていた。 「本当に。妹が失礼をしてすいません」 「いいんだよ。というか。実に清々しいんだ」 社長の息子の哲嗣。日頃周囲に気を遣われている彼。同世代の仲間内でも疎外感があった。 そんな中、特別扱いしない雪子の対応に気分を良くしていた。 「しかし。君たちは二人で暮らしているのか」 「ああ。それはですね」 真はどこか寂しく話した。 「両親は他界しているんです」 「悪い事を聞いたね」 「良いんですよ?まあ、だから気にしないでください」 真はずらすように仕事の話をした。哲嗣はこれ以上聞かなかった。 広い風呂、タイルの浴室。その湯はなんと天然温泉。近所の住人のくつろぐ雰囲気。哲嗣はすっかり気に入った。 やがて風呂から出た哲嗣。脱衣所の籠の着替えは洗濯された衣服。真のお下がりであろうが哲嗣は嬉しかった。 銭湯の帰り道。カシオペア座のW がまるでここに落ちてくるように近い夜空。濡れた髪が凍る白い道。その身の暖かさは温泉のせいだけなのか。哲嗣は腹を空かせて佐藤家に帰ってきた。 「お帰りなさい。うん。スッキリしたわね」 「俺って。そんなに臭かったか?」 困った顔の哲嗣。雪子は微笑んだ。 「ふふ。それだけ頑張ってお仕事をしたってことでしょう?良い事よ」 さあさあと雪子は哲嗣をちゃぶ台の前に誘った。 「この座布団にどうぞ。兄さんも。あら?まだこんなに髪が濡れて」 真の髪を拭く雪子。哲嗣は羨ましく見ていた。 「さて。ビールね。グラスをどうぞ」 冷やしたグラス。男達は嬉しそうに受け取った。 「兄さん。栓を抜いて」 「おう。任せておけ」 託した瓶ビール。ポンとあいた栓。真は哲嗣のグラスにビールを注いだ。そして今度は哲嗣が代わって注いだ。二人はささやかな乾杯をした。 「うまい?」 「ああ。格別だ」 「まあ?兄さんまで。大袈裟ね」 今夜のメニュー。カレイの煮物。おから。じゃがいもの味噌汁。哲嗣はどんどん食べていた。 「しかし。妹さんは料理が上手だな」 「お兄ちゃん。この人、本当に何をしている人なの?」 「こら?」 「ははは。真君。怒らないでくれよ」 哲嗣はきゅうりの漬物を齧った。 「妹さん。俺はね。今まで山に入って修行をしていたんだ」 「まあ」 「クマを倒したくてさ。この身を鍛えようとしてね。二年は山に入っていたかな」 「二年も?そして、修行はどうなったの」 哲嗣はそっとビールを飲んだ。 「とうとう倒したさ。ヒグマをね」 「すごい?どうやって倒したの?素手で?」 本気にしている雪子。哲嗣は真顔で答えた。 「気合いかな?俺が睨んだらすごすごと森へ逃げて行ったよ」 「まあすごい?聞いたお兄ちゃん。睨んでクマを。あれ」 クスクス笑う男二人。これに流石の雪子が察した。 「ひどいわ?私をからかったのね」 「これに騙されるお前がおかしいぞ」 「もう知らない。勝手にどうぞ」 恥ずかしそうにした雪子。部屋を出て行ってしまった。 「悪ふざけが過ぎたかな」 「いいんですよ。そして、仕事の話でいいですか」 せっかくの機会。真は室蘭の情報を説明していた。哲嗣としても聞きたい内容。すっかり夜は更けていた。 真はうつらうつらしてしまった。ここに雪子が食器を片付けに顔を出した。その横顔はまだどこか悲しげだった。 「先ほどはすまなかった。悪ふざけが過ぎたよ」 「別に。もう、気にしてませんから」 そうは言っても元気のない様子。哲嗣は焦った。 「悪かった。すまない」 「いいんです。どうせ私はもの知らずの田舎娘ですもの」 「そんなことはない!」 必死の哲嗣。思わず俯く雪子の腕を掴んだ。 「君はしっかりしているよ。俺は感心しているんだ」 「……」 「お願いだから。機嫌を直してくれよ。な?」 「……ふふ」 「あれ」 雪子は笑顔を見せた。 「騙したお返しです」 「……はあ。やられたよ」 そこに真のいびきが響いた。雪子と哲嗣は声を出して笑った。 「こうなったらてこでも起きないんです。ここに布団を持ってきます」 兄の世話を焼く雪子。その背に哲嗣は勇気を出した。 「妹さん。自己紹介がまだだった。俺は函館から来た岩倉哲嗣という。真君の上司をさせてもらっている」 「函館、ですか」 「ああ。会社の使いぱしりさ。それに、お弁当ありがとう」 「そんな函館から来た上司の方なんて……あんなお弁当で、失礼しました」 ……どうしてそんな顔をするんだ。 恐縮する雪子。こんな姿を見たくない哲嗣。思わず手首を掴んだ。 「そんなことない。嬉しかったよ」 「でも」 「美味かった。今夜のカレイも。ありがとう」 日頃ありがとうと言われたことがない雪子。胸が弾んだ。 「こちらこそ、あの。今夜もあの部屋にどうぞ。岩倉さん」 「……できれば名前で呼んでほしい。俺もそう、したいから」 恥ずかしそうな哲嗣。雪子はくすと笑った。 「私も雪子と呼んでください。さあ、歯磨きをしてくださいね」 「ああ」 手を解いた二人。雪子の笑顔。哲嗣はそれに誘われるように寝床に入った。 室蘭の古い家。窓が凍る二月の夜。下がる氷柱の部屋。粗末な布団の哲嗣には雪子の湯たんぽが暖かった。 一話『白銀の朝』 完
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